金旋

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金 旋(きん せん、? - 209年)は、中国後漢末期の人物。元機雍州京兆郡の出身。前漢金日の末裔。子は金禕。『蜀志』先主伝が引く『三輔決録』に記述されている。

事跡

朝廷に仕えて、黄門郎・漢陽太守などを歴任した。

その後は議郎、次いで中郎将に任じられた。このとき、中郎将と兼任して武陵太守にも任じられたが、劉備軍に攻められ戦死した。荊州南部の太守ら(金旋・劉度韓玄趙範)は相次いで劉備に降伏するか敗死したが、彼らが荊州に土着していた記録はない。おそらく劉琮の降伏後、曹操に派遣された太守である可能性が高い。ところが赤壁の戦いに曹操が敗れたため、それぞれ孤立してしまい劉備軍に制圧されたものと思われる。

218年、子らは許昌で反曹操の兵を挙げるが失敗、一族を滅亡させてしまった。子らが反乱の際に頼りとしたのは、皮肉にも父を殺した劉備であった[1]

三国志演義では

小説『三国志演義』においても武陵太守として登場している。劉備軍の張飛が攻めてきたとき、配下鞏志の諫言を退け戦ったが敗れ、武陵に逃げ戻る。しかし、鞏志に裏切られ矢で射殺されてしまう。金禕は演義にも登場するが、金旋の子であるとは明言されていない。

脚注

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  1. この時の金禕らの計画は、献帝を擁して許昌に籠城し、劉備・孫権の援軍を待つというものだった。