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遼 (王朝)から転送)
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テンプレート:基礎情報 過去の国 (りょう、簡体字拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の王朝。916年から1125年まで続いた。

名称

建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、本来であれば947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と呼ぶべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

歴史

ファイル:China Song Dynasty.jpg
=北宋、遼(簡体字で「」)、西夏の境域図。北宋政和元年、遼天慶元年(1111年

テンプレート:モンゴルの歴史 現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

さらに2代耶律徳光五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束し、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳北遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)。

政治

遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。

北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。

南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。

この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを中国の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。

遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

地理

遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市が設けられた(→複都制)。

都は上京臨府(現在の内モンゴル自治区巴林左旗の南、巴林左旗は内モンゴル自治区南部の都市赤峰市から北上した大興安嶺山脈の麓にある。は、氵(さんずい)に黄)に置かれた。

日本との関係

遼と日本との間には正式な国交はなかった。しかし、嘉保2年(1094年5月25日前大宰権帥正二位行中納言藤原伊房前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下位階を剥奪された[1]。なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。

遼の皇帝

契丹と遼 907年 - 1125年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
太祖 大聖大明神烈天皇帝 阿保機 耶律阿保機 907年 - 926年7月 神冊 916年12月 - 922年1月

天賛 922年2月 - 926年2月
天顕 926年2月

淳欽皇后 月里朵 述律平 926年7月 - 927年11月 天顕 926年 - 927年
太宗 孝武恵文皇帝 徳光 堯骨 耶律徳光 926年11月 - 947年4月 天顕 927年 - 938年11月

会同 938年 - 947年1月
大同 947年2月 - 9月

世宗 孝和荘憲皇帝 兀欲 耶律阮 947年4月 - 951年9月 天禄 947年9月 - 951年9月
穆宗 孝安敬正皇帝 璟/明 述律 耶律璟 951年9月 - 969年2月 応暦 951年9月 - 969年2月
景宗 孝成康靖皇帝 明扆 耶律賢 969年2月 - 982年9月 保寧 969年2月 - 979年11月

乾亨 979年11月 - 983年6月

聖宗 文武大孝宣皇帝 隆緒 文殊奴 耶律隆緒 982年9月 - 1031年6月 統和 983年6月 - 1012年閏10月

開泰 1012年11月 - 1021年11月
太平 1021年11月 - 1031年6月

興宗 神聖孝章皇帝 宗真 只骨 耶律宗真 1031年6月 - 1055年8月 景福 1031年6月 - 1032年11月

重熙 1032年11月 - 1055年8月

道宗 孝文皇帝 洪基/弘基 查剌 耶律洪基 1055年8月 - 1101年1月 清寧 1055年8月 - 1064年

咸雍 1065年 - 1074年
太康 1075年 - 1084年
太安 1085年 - 1095年
寿昌 1095年 - 1101年1月

延禧 阿果 耶律延禧 1101年2月 - 1125年2月 乾統 1101年2月 - 1110年

天慶 1111年 - 1120年
保大 1121年 - 1125年

北遼と西北遼 1122年 - 1123年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
宣宗 孝章皇帝 淳/澶 涅里 耶律淳 1122年3月 - 6月 建福 1122年3月 - 6月
普賢女 蕭普賢女 1122年6月 - 12月 徳興 1122年6月 - 12月
順文皇帝 雅里 耶律雅里 1123年5月 - 10月 神歴 1123年5月 - 10月
英宗 顕武皇帝 朮烈 耶律朮烈 1123年10月 - 11月 神歴 1123年10月 - 11月
西遼 1132年 - 1218年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
徳宗 天祐皇帝 大石 耶律大石 1124年7月 - 1143年 延慶 1132年2月 - 1134年

康国 1134年 - 1143年

感天皇后 塔不煙 蕭塔不煙 1144年 - 1150年 咸清 1144年 - 1150年
仁宗 正徳皇帝 夷列 耶律夷列 1151年 - 1163年 紹興 1151年 - 1163年
承天皇后 普速完 耶律普速完 1164年 - 1178年 崇福 1164年 - 1178年
文顕皇帝 直魯古 耶律直魯古 1179年 - 1211年 天禧 1179年 - 1211年
憫文皇帝 屈出律 屈出律 1212年 - 1218年 天禧 1212年 - 1218年

系図

テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end 太字は皇帝、北は北遼、西は西遼、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

参考資料

  • 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年)
  • 遼史テンプレート:Link GA

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  1. 池上裕子小和田哲男小林清治池享黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社1995年)201頁参照。