貝殻島
テンプレート:出典の明記 座標: [[[:テンプレート:座標URL]]43_23_42_N_145_51_34_E_{{{9}}} 北緯43度23分42秒 東経145度51分34秒] テンプレート:Infobox
貝殻島(かいがらじま、露:Остров Сигнальный)は、いわゆる北方領土の歯舞群島にある低潮高地。低潮時には海面上に有るが高潮時には水没するため、国連海洋法条約で言うところの島ではない。ロシア語地名は、シグナリヌイ島(Остров Сигнальный=灯台島の意)。
地名の由来は、アイヌ語の「カイ・カ・ラ・イ(波の・上面・低い・もの<岩礁>)」から[1]。
地理
納沙布岬と水晶島を隔てる海峡、珸瑶瑁水道のほぼ中間地点にあり、納沙布岬からの距離は3.7kmである。島というよりは岩礁に近く、1937年に日本により建設された貝殻島灯台がある。貝殻島灯台は灯台基部と共に基礎部分の劣化が進み、傾いた姿が納沙布岬から目視で確認できる。灯台はロシアが現在も管理・維持を続けており、消灯と復旧を繰り返している。ただし、前述の通り灯台は劣化が進んでいるため、機器劣化(主に電池の消耗)のために消灯した場合、ロシアが復旧するまで消灯状態が続く。消灯期間が長期に渡った例としては1999年から約3年間に渡って消灯したこともある。
領有関係
戦前からコンブのよく取れる海域とされていた。
- 1945年、戦後にソ連の占領下となる。この後、マッカーサー・ラインが設定され、日本漁民が自由に出漁できる範囲とできない範囲とが分離された。北方周辺海域では、ラインは納沙布岬と水晶島の中間に引かれたため、戦後3年間は貝殻島周辺は日本の海域となっていた。
- 1948年12月、GHQは米駆逐艦コワゾール号で再調査した結果として、マッカーサー・ラインを納沙布岬と貝殻島の中間に引きなおした。この結果、貝殻島周辺はソ連の海域となり、漁民は危険を覚悟で操業を続けたため拿捕が相次いだ。マッカーサー・ラインは講和条約発効3日前に廃止されたが、中間ラインと言う事実上の国境として残された。
- 1957年、ソ連国境警備隊が上陸。旧日米安保条約は現行安保条約と異なり、日本を防衛する義務をアメリカに課しておらず、米軍は出動しなかった。
- 1963年、この状況を打開すべく民間協定が結ばれ、以降ソ連(現在はロシア連邦)に入漁料を支払ってコンブ漁を続けている。
- 1991年、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在もロシア連邦が占領・実効支配しているが、日本も領有権を主張している。当該地域の領有権に関する詳細は北方領土問題の項目を、ロシア側の現状などに関してはサハリン州の項目を参照のこと。
観光
納沙布岬にある望郷の家に設置された望遠鏡からは貝殻島灯台を見ることができるが、肉眼でも小さい棒のように飛び出した貝殻島灯台を見ることもできる。また毎年11月1日から4月30日まで、地元歯舞漁業協同組合では「北方領土を間近に望む本土最東端パノラマ・クルーズ」を行っており、納沙布岬・貝殻島灯台中間点から貝殻島を間近に見ることもできる。
貝殻島が登場する作品
- 『霧鐘』(中薗英助、1962年)
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:千島列島- ↑ 「北方四島」のアイヌ語地名ノート-松浦武四郎「山川図」による-榊原正文著、より。