豊島郡 (武蔵国)
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郡域
近世以降の郡域は、概ね東京都千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区および練馬区の一部(大泉町・西大泉・西大泉町・南大泉・北大泉・大泉学園町を除く)の区域にあたるが、行政区域として画定されたものではない。
なお、古代までは港区および千代田区の一部(麹町地区)は荏原郡にあり、逆に墨田区の牛島、江東区の永代島などは近世に葛飾郡となるまでは豊島郡に属していたとされる。
歴史
- 豊嶋郡とも表記した。武蔵国の中でも非常に古くから栄えていた郡の一つであり、多摩郡に次ぐ大郡であった。
- 郡衙跡は、現在の東京都北区の滝野川公園内の御殿前遺跡であるとされる。
- 平安時代中期の和名類聚抄に、 豊島郡は日頭、占方(白方)、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の7郷を管轄したとある。ただし、平安時代末期の古写本「高山寺本」には、 余戸、駅家の2郷の記載はない。
- 平安時代末期からは豊島氏の支配下にあった。他にも葛西氏、江戸氏、渋谷氏などがいたが、室町時代までにはこの地を去っている。
- 戦国時代には扇谷上杉家家臣の太田道真・道灌親子により豊島氏は滅亡。扇谷上杉家の弱体後は後北条氏が進出した。
- 1590年(天正18年) - 徳川氏が郡内の江戸を根拠地とした。後に徳川氏は江戸幕府を開き日本の政治的中心地となった。
- 江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分けられた。
近世以降の沿革
- 所属町村の変遷は北豊島郡#郡発足までの沿革、南豊島郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、当郡域49町91村[1]の支配は以下の通り。町の数が多いのは、町地の在方分(代官支配地)が含まれるため。他にも寺社領、寺社除地が各村に散在。(49町91村)
- 慶應4年
- 明治元年
- 明治2年
- 明治4年11月14日(1871年12月25日) - 東京府(第2次)が発足。品川県・小菅県・浦和県の当郡に属する区域を管轄。
- 明治11年(1878年)11月2日 - 郡区町村編制法の東京府での施行により、下板橋宿ほか13町65村の区域に北豊島郡が、内藤新宿12町25村の区域に南豊島郡がそれぞれ行政区画として発足。同日豊島郡廃止。
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 13 東京都
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
外部リンク
- 『新編武蔵国風土記稿』豊島郡 - 江戸時代に描かれた豊島郡
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テンプレート:武蔵国の郡- ↑ 村数の数え方には諸説あり、「角川日本地名大辞典」の記述では「旧高旧領取調帳」では148村、4万8,738石とある。町地の在方分も村数に含まれていると思われる。