蛸島彰子

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蛸島 彰子(たこじま あきこ[1]1946年3月19日 - )は、日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属の女流棋士東京都出身。日出女子学園高等学校卒業。高柳敏夫名誉九段門下。LPSA番号1。以前は日本将棋連盟に所属し、史上初の将棋の女流棋士。日本将棋連盟在籍当時の女流棋士番号は1。結婚により、現在の本名は武田 彰子[2](蛸島は旧姓)。

人物

小学生のころ、蛸島のそそっかしい性格を見かねた父親が、将棋をやれば落ち着きが出るのではと将棋を教え始める。父親の厳しい指導で実力をつけ、それを評価した金易二郎の勧めにより、10代半ばで奨励会に入会する。史上初の女性奨励会員であり、男性会員の間では「蛸ちゃんに負けたら丸坊主・罰金」という合言葉が広まったり、中には蛸島に負けて奨励会を退会する者まで出た[3]。一方で各種将棋イベントに出演、将棋界のマスコットガールの役割を果たした。

20歳で初段に昇段するも、結婚のため奨励会を退会する。

その後、初の女流棋戦として女流名人位戦が創設され参加、初代女流名人となる。以後3連覇するも、第4期(1978年)で山下カズ子に破れ失冠。しかし同年創設された女流王将戦で初代女流王将となり、これも3連覇する。さらには第8期女流名人位戦で山下からタイトルを奪還。林葉直子中井広恵清水市代の「将棋三人娘」が登場するまで、山下とともに女流二強時代を築いた。

一方女流第一人者として、女流棋士会初代会長、女流育成会幹事など、女流棋士の地位向上や育成において常に重責を果たしてきた。日本女子プロ将棋協会相談役→代表代行を経て、2014年2月現在は同協会特別相談役[2]

唯一の女性プロ棋士であったころから二十数年にわたって、NHK杯テレビ将棋トーナメントの棋譜読み上げを務めた。その美貌もあって、将棋を指す少年たちのあこがれの存在であった。その頃対局した作家で将棋アマ4段の山口瞳は、「蛸島さんは(NHK)テレビの対局で棋譜を読み上げている人である。非常に美しい。女性といってもプロの二段で非常に強い」と感想を述べている。なお山口との対局「血涙十番勝負」第3局はアマチュアとのお好み対局ではあったが、蛸島にとって非常に思い出深い対局であり、心に残った一局として「将棋世界」の取材に答えている。

女流名人時代、「新・必殺仕置人」に女性棋士役でゲスト出演する話があり、一部撮影まで済ませたものの、同門の兄弟子芹沢博文が「女流とはいえ名人、それが〔殺されて〕コモかぶりでは将棋のタメにならない」と番組プロデューサーに強く抗議。結局、出演は叶わなかった[4]

第53期名人戦第1局で挑戦者の森下卓八段(当時)が指した108手目△8三桂を控室で「▲7五歩と指されたらどうなるの?」と指摘、すでに森下勝ちで検討は打ち切っていたがこの一言で再検討した結果△8三桂は悪手で羽生名人の逆転勝ちとなった。

略歴

初の女性奨励会員であった彼女には、「指し分けで昇級」という特例が設けられていた。
ただし1974年までは女流タイトル戦などがなく、レッスンプロのような存在であった。

タイトル

タイトル
  • 女流名人
    • 第1期(1974年度)~3期、8期(1981年度)
  • 女流王将
    • 第1期(1978年度)~3期(1980年度)
棋戦優勝

著書

脚注

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  1. 著書『将棋かくしふで』(講談社、1987年)の奥付では、名字の読みが「たこしま」となっている。一方、日本女子プロ将棋協会公式プロフィールでは「たこじま」「Takojima」と表記されており、TwitterでもTakojimaの表記が確認できる。
  2. 2.0 2.1 公益社団法人日本女子プロ将棋協会 役員名簿
  3. Positive de Go!」第18回(2008年4月18日)配信分。
  4. 山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社アルファ文庫、2002年)、178~179ページ。

関連項目

外部リンク

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