藤原真夏

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 真夏(ふじわら の まなつ)は、奈良時代から平安時代前期の公卿右大臣藤原内麻呂長男。異父同母弟に良岑安世がいる。

生涯

延暦年代末に同い年である皇太子安殿親王の側近として春宮権亮次いで春宮亮を務めた。大同元年(806年)、安殿親王が平城天皇として即位すると、同年従五位下から一挙に従四位下まで昇進するなど天皇の側近として急速な昇進を果たし、大同4年(809年)には山陰道観察使として公卿に加わった。

嵯峨天皇の代になると、大同5年(810年)の4月には正四位下・参議(観察使制度廃止による)に叙任されるが、同年9月に発生した薬子の変連座し参議を解官の上、伊豆権守のち備中権守に左遷された。

弘仁3年(812年)本官に復帰し、同13年(822年)には従三位に昇叙。弘仁14年(823年)4月平城上皇が平城宮の諸司を停止し、少数残っていた平城宮の官人を朝廷に返却した際、諸司停止の書状を朝廷に届ける使いを、あるいは同年5月に平城上皇が太上天皇尊号を除くことを請う書状を淳和天皇に提出した際も同様に使者を務める等、平城上皇の最晩年までその近臣として上皇と朝廷との間を取り持つ役割を担った。

左大臣に昇った同母弟冬嗣より長命を保つが、最終官位は散位従三位に止まった。天長7年(830年)11月10日薨去。享年57。

なお、藤原北家の嫡流は弟である冬嗣の子孫に譲ったが、真夏の子孫からは日野家を初めとして、広橋家柳原家烏丸家竹屋家日野西家勘解由小路家裏松家外山家豊岡家三室戸家北小路家の計12家の堂上家が成立し、後世真夏流と呼ばれる。

人物

言葉を巧みに飾る性格で、状況に合わせた立ち居振る舞いができた。音楽の才能にも非常に恵まれており、大同年間の初めに大嘗会所を引き受けた際、華美な標を作り、八佾の舞の演奏を行った。これ以降大嘗会に莫大な費用をかけるようになったという。[1]

官歴

系譜

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 日本後紀』天長7年11月10日
  2. 『日本後紀』による。『公卿補任』では21日