花房職秀

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テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 武士 花房 職秀(はなぶさ もとひで)は、戦国時代から江戸時代武将備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣。花房職勝(職治)の子。後に「職之」と改名。通称は若狭、助兵衛(すけびょうえ)。法名は道恵。花房氏清和源氏足利氏の末裔と称するが、真偽は不明である。子に、後に榊原姓を名乗り徳川家に仕官し、長崎奉行を務めた榊原職直など。

経歴

宇喜多氏時代

美作荒神山城城主。武勇に優れた剛直の士で、1567年に足軽大将として出陣して以来、各戦に従軍。1569年には、備中国をめぐって毛利元就の四男・穂井田元清と交戦した。1570年からは、美作国に荒神山城を築いて国の経営を任された。1577年からは赤松氏浦上氏と交戦、天正7年(1579年)に宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基三星城を攻め、これを滅ぼした。

宇喜多氏が織田氏に従属した後、豊臣秀吉の時代が到来すると、1590年小田原征伐に従軍。石垣山城演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない豊臣秀吉に対して愚直にも諫言したこともある。石垣山城門で秀吉と出会った際に下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので切り捨てられそうになったが、秀家に取りなしてもらった後に、逆に気に入られて加増されたエピソードがある[1]

1595年には主君・宇喜多秀家に対して長船綱直を重用することを諫言しようとしたが、逆に秀家に殺されそうになる。この際は秀吉の仲介で一命は助けられ、徳川家康の斡旋もあり、常陸国佐竹義宣に預けられた。この出来事は、1599年の宇喜多氏のお家騒動の遠因となったともいわれている。

関ヶ原の戦いから元和偃武まで

1600年関ヶ原の戦いでは徳川家康に与し、東軍の武将として活躍し、8,000石の所領を得、旗本寄合に列した。1614年からの大坂の陣にも参加、老骨に鞭打ち、輿に乗りながら采配を執ったというが、加増はなく、翌1616年に没した。墓所は岡山市高松の妙玄寺。

職秀は武勇に長け、誰にも憚ることなく諫言したことから、その人物を秀吉に愛されたと言う。また、八丈島に流罪となった旧主・秀家に、毎年二十俵の米を送っていたと言われている。

参考文献

  • 小説(短編)司馬遼太郎:『助兵衛物語』(新潮文庫・『俺は権現』 ISBN 4-06-131806-3 収録)
  1. 「戦国合戦」意外・驚きエピソード (PHP文庫) 加賀 康之