切腹
切腹(せっぷく)は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士などが行った日本独特の習俗。自身や臣下の責任をとり、自身の身を以て家の存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。
目次
概念
切腹が習俗として定着した理由には、新渡戸稲造が『武士道』(Bushido: The Soul of Japan、1900年刊)の中で指摘した、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたとの説が唱えられているとされる。
切腹の動機としては、主君に殉ずる「追腹」(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための「詰腹」(つめばら)、無念のあまり行う「無念腹」、また、敗軍の将が敵方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助命と引き換えに行うことがある。また、合戦における下知なき行動(抜駆け)を行った者に対し、刑罰的な意味を込めて切腹を命じる場合もあった。中でも徳川家康は抜駆け行為に対し、一族郎党全員の切腹という、特に厳しい軍律を設けていた。
切腹は、安土桃山時代や江戸時代初期からは自死のほかに、処刑(死刑)の方法の一部としても採用されているが、この場合、自分の不始末を自力で処理するため、主君より「死を賜る」という考えから、誉ある死とされた。江戸時代になると形式的なものとされたが、事例自体は多いとはいえず、割合でも刑罰等での切腹が多くを占めるようになった。
日本における歴史
平安時代
テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA 日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。また藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのは明確ではない。
近世以前の事例を見ると、一部の例外を除いて、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるための自決に限られている。戦に敗れたから即自決というわけではなく、地下に潜り(逃亡し、本当の身分を伏せて生きること)再起を図ろうとする武士も大勢いた。また、壮絶な切腹は畏敬の念を持たれることもあるが、切腹自体は自決のひとつに過ぎず、特に名誉と見られることもなかった。武士への死刑執行も全て斬首刑で、身分ある武士といえども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後に謀殺であった。
室町・戦国時代
室町時代の明徳3年(1392年)に管領細川頼之に殉死した三島外記入道(『明徳記』)以来、平時に病死した主君に対して殉死を行う風習が始まった。
テンプレート:要出典範囲その秀吉は、豊臣秀次[2]、千利休らに対し、刑罰として切腹を命じている。また、関ヶ原の戦い、大坂の役での敗軍武将への死刑執行は全て斬首刑であるが、古田織部・細川興秋など豊臣方与力と見なされた者は切腹させられている。
江戸時代
江戸時代初期には松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した。この流行は1663年(寛文3年)5月に「天下殉死御禁断の旨」[3]により殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが、寛文8年、奥平昌能が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で二万石を削られる処断を受け実効を持つことになった。1684年(貞享元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる[4]。
明治〜昭和時代
死刑執行方法としての切腹は、1873年(明治6年)に廃止され、以後、日本における死刑では絞首刑が用いられているが、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った。
旧日本軍においては一部の将校の自決に行われ、明治天皇に殉じた乃木希典陸軍大将、大西瀧治郎海軍中将、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣であった阿南惟幾陸軍大将などがある。現代の事象としては、1945年(昭和20年)8月25日に、東京都内の旧・代々木練兵場(現・代々木公園)で、「大東塾十四士」が古式に則り集団割腹自殺をした事件や、1970年(昭和45年)11月25日に作家・三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で演説を行ったのち割腹自殺した事件(三島事件)などがある。ただし三島由紀夫は日本的な美に強い影響を受けていたとされ、軍人でないに関わらず(三島自身は兵役を免れており、大戦には兵として参加していない。)割腹自殺を行った経緯についても影響を受けているとされる。
作法
戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたり、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたと言われ、軍記物にもそのような描写が散見される(状況によっては、ただちに失血性ショックや腹膜刺激症状を起こし、失神ないし運動失調を来すため、実行は困難を極めるが、成功した例も報告されている[5])。
近世に入り、武士身分の処刑として切腹が確立すると、切腹にも作法が登場する。切腹する人を切腹人(せっぷくにん)という。切腹人に付き添い切腹人の首を切り落としたり、検視役に首を見せるなど、切腹の補助を行う者を介錯人(かいしゃくにん)という。腹部を切り裂いただけでは死亡までに時間がかかり、死ぬ者に非常な苦痛を強いるため、通常は介錯人が切腹直後に介錯を実行する。江戸時代には、切腹は複雑で洗練された儀式となり介錯がつく切腹の作法が確立した。切腹の作法が制定された時期については諸説あるも、18世紀の初め(享保年間の前後)という説が有力である。
切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちからへその下まで切り下げる「十文字腹」がよいとされた。もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することが多かったとされる。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす介錯(かいしゃく)の作法が確立した。テンプレート:要出典範囲介錯は通常、正副の2人、あるいは3人で務めた。それぞれ、3人の場合、首を打つ「介錯」(大介錯ともいう)、短刀をのせた四方(4つ穴のある三方)を持ち出す「添介錯」(助介錯ともいう)、首を実検に入れる「小介錯」の三役である。介錯人については、首を一刀で切り落とすのは剣術に長けた者でないと勤まらず、下手な者の介錯ではしくじっては何度も切腹人を斬りつける事態になりかねない。介錯人は預かり人の家中の者が務める建前になっていたため、介錯の失敗は武術不心得として預かり人の家の恥とされた。そこで、家中に腕の立つ者がいない場合、他家に依頼して人を借りてくることもあった。
江戸時代中期には、切腹自体も形式的なものとなり、四方に短刀でなく扇子を置き、その扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。赤穂浪士も、比較的身分が高かった大石良雄ら数人以外は、扇子や木刀を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた、という逸話も残っている。ただし幕末になると、全面的にではないが、本来の切腹が復活したことも記録されている。
切腹の場所は、大名クラスの身分をはじめとする上級武士の場合は預かり人(切腹人の身柄を預かる人)の邸内、やや身分が劣る場合は預かり人の邸宅の庭先、さらに身分が劣る場合は牢屋の中とされた。なお、足軽以下の身分(足軽は「士」では無いとされた)は切腹を許されなかったとされる。(なお、儀礼化されているわけではないため、介錯は任意である)。
元禄赤穂事件は浅野長矩が「庭先にて切腹」という大名に対しての礼を欠いた処遇も原因のひとつである。
なお、比較的平穏だった江戸時代においては、どうしても腹を切れない武士も少なからずおり、そのため切腹の代わりに「一服」という服毒自殺の方法も用意されていた[6]。
古式では寺院で、のちに預人の座敷または庭上で、行なわれた。
手順
ここでは、作法が確立した江戸時代の非自発的切腹(多くは刑罰としての切腹)の手順を説明する。
- 切腹の沙汰が下されると、罪人にその旨が伝えられる。
- 切腹前に、切腹する者は沐浴を行い身を清める。この時に使う水はたらいの中にまず水を入れ、そこへ湯を足して温度を調整したものを使用する。生きた人間が身体を洗う際は湯を水でうすめぬるくするのが当時普通であったが、これはその逆であり、遺体の湯灌につかう水と同じ方法である。
- 次いで髪を結い、普段より高く結い普段と逆に曲げる。つまり元結左巻に四巻、髷を逆さに下に折り曲げる。切腹の際の装束は、着衣は白無地の小袖と、浅葱色の無紋麻布製の裃で襞は外襞、小袖は首を打ち落としやすいように後襟を縫い込んでいるものと決まっていた。遺体に着せるのと同じように左前(着用する人の左の襟を手前)に合わせる。
- 切腹の場所は上輩であれば6間四方、中輩であれば2間四方にもがりを結い、南北に口を開いておく。南は「修行門」、北は「涅槃門」と呼ばれている。そこには逆さに返した畳二畳(土色の畳白縁の物)を撞木に敷き、縦の畳に浅黄色ないしは青色の布か布団尺4幅を敷き(場合によってはその上に白砂をまく場合もある)、その四隅に四天を付け、畳の前に白絹を巻いた女竹を高さ8尺、横6尺の鳥居形に立て、四方に4幅の布を張る。後方には逆さに返した(あるいは引き方を逆にした)屏風を立てる。
- 検視役の座が切腹する者の座の対面に設けられ、切腹人は涅槃門から入り、畳の白絹の上、北に向かって座する。介錯人は修行門から入った。
- 切腹する者の前には盃二組(上がかわらけ、下は塗り物)と湯漬け(白飯に白湯をかけた物)に香の物三切れ(身切れの意であるという)、塩、味噌の肴、逆さ箸が添えられる(切腹人にとってこの世で最後の食事となる)。
- 切腹人は、銚子で、酒を左酌にて二度注がれ、二杯で四度で飲む。この時、切腹人がさらに盃をねだっても、酩酊すると不都合なので与えない。
- その後、配膳係は膳を下げ、切腹に用いる短刀を三方にのせて差し出す。切腹刀は、拵え付きの刀(白木の鞘ではなく、組糸を用いた物を用いる。ただし、先述の通り時代が下ると木刀や扇子で刀に見立てるようになった)を用いる。短刀は9寸5分、柄を外し、布か紙で28回逆に巻いて紙縒で結び、刃先が5〜6分出るようにする。柄をつけたまま行う場合も目釘を抜く。
- 正介錯人は、切腹人に対して名を名乗り一礼する。そして、正介錯人は後ろに回り、介錯刀に水柄杓で水を掛けて清め、八双に構える(構えには諸説ある)。
- 切腹人は、検視役に黙礼し、右から肌脱ぎする。左で刀を取り、右手を添えて押し頂き、峰を左に向け直し、右手に持ち替え、左手で三度腹を押し撫で、へその上一寸ほどへ左から右へ刀で突き立て(へそ下深さ三分ないし五分とも)、切腹人が刀を引き回す所で、介錯人は首を皮一枚残して斬る。皮一枚残して斬ることを「抱き首」といい、この形に斬るのが介錯人の礼儀とされた。抱き首の形にするのは、首が飛んで落ち、土砂に汚れるのを防ぐための配慮や、「身体を分割するのは親不孝」との儒教思想の影響があるため、また胸にぶら下がる首の重みで体を前に倒すためともいう(討ち死には敵に頭を向ける前のめりの形が美しいとされた)。ただし、例えば土佐では皮を残さず切り落とすなど、地方によって異なり、切腹人があえて首を切断することを希望する場合もあり、必ずしも抱き首にしなければならないということはなかった。
- 介錯が済むと、表裏白張り白縁の屏風をめぐらせ、死骸を人に見せぬようにする。副介錯人が首を検視役に見せて切腹人の絶命を確認し、切腹の儀式は終了する。柄杓の柄を胴に差し首を継ぎ、敷絹で死骸を包み、棺に納める。
のちに簡略化され、切腹人が裃を着ると湯漬け飯を出し、旗幕を省き、畳2帖白絹敷物白屏風のみとして、肴は昆布1切を角折敷にのせて出されるのを介錯人に会釈して一献受け、介錯人にさし、検視は3間ほど離れて筋違いに座する。介錯人が首を打つと検視は刀を取って左足を踏み出し、左回りに立つ。
テレビや映画の時代劇などでは、白布を敷いた畳の上に白装束、奉書紙に巻いた拵え無しの刀を用いての切腹シーンが登場するが、史実ではこのような作法はいかなる時代・地方においても存在しない。切腹の場所を白で統一すると血の色が目立ち過ぎ、見た目がむごたらしくなるからである。また白の裃は他人の葬儀に出席する際に着用するいわゆる喪服であり、切腹の際に着用されることは無かった。現実には碧血の故事(碧血碑を参照のこと)にちなみ、着る物や敷く物は浅葱色に整えられた(浅葱色+赤=碧色)。切腹用の短刀も、奉書紙を巻いただけでは滑って差し支えるため、紙縒りで固く留めるか拵えを付けたままにしておくのが常であった。また、白鞘は本来刀身保管用のための物であり、武士が実用に供することはない。一般に流布している切腹のイメージは、映像作品においての見栄えを考えたものであり、実際とは異なる。[7]
切腹に関する研究
切腹は、日本独自の習俗であることから、研究対象として、あるいは興味関心の対象として、注目された。英語圏においては、「腹切り」(harakiri)としてそのまま英語の単語になり、オックスフォード英語辞典 (OED) の項目に採用されている。
前述した通りではあるが、新渡戸稲造は、1900年に刊行した著書Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)のなかで、切腹について、腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰に由来する、と考察している。
戦での首切りの習慣や周辺諸民族の風習と併せて考えると、切腹は台湾以南の南方諸民族(マレーシア、インドネシア周辺の民族)の共有していた生命観に行き着くとされる。すなわち、命は腹や頭に宿っており、勇敢な戦士の魂を自分のものとするために斬頭したり、自己の魂を見せつけるために切腹したりするのだと考えられるのである。
影響
生命科学の分野では、アポトーシスを誘導する遺伝子のひとつに、「Harakiri」の名前が採用されている。Harakiri遺伝子は、脳虚血時や、アルツハイマー型認知症による神経変性時に、神経細胞の死をつかさどる。これは、「アポトーシス=細胞の自殺=腹切り」という連想から名付けられた。
切腹の文化的、国民性への影響は、明治以降の国民教育で武士道が国民道徳化して以降、大きな影響を与えたといわれる。現在日本国民の大多数が死刑を肯定する立場にあり、廃止を訴える国民は依然少数である。これは「己の名誉と贖罪のため、死をもって償う」という自己犠牲の理念が「日本人の伝統」として固定化されたためであるという意見もある。
中国の「切腹」
切腹は日本独特の習俗と言われるが、これに近い割腹自殺は中国にも存在する(中国語では「剖腹」と言う)。例えば『呂氏春秋』仲冬紀に載せる「弘演納肝」の故事では、忠臣であった弘演は、自分の腹を切って内臓を出し、自分の体内に惨殺された自分の主君の肝臓を入れて絶命し、人々からその忠勇をたたえられた。『史記』刺客列伝の聶政は、男らしい自決として、敵の面前で致命的な自傷に及び、腹を切った。『謝承後漢書』の戎良や、『旧唐書』列伝第137の安金蔵は、自分の誠意を証明するため自分の腹や胸を刀で引き裂き、内臓を取り出して見せた(安金蔵は外科手術によって命を取り留め、武則天からその忠勇を激賞された)。
近現代でも、文化大革命のとき、無実の罪で糾弾された共産党員が、公衆の面前で割腹自殺した例がある。中国の割腹自殺と、日本の切腹の起源の関連については不明である。ちなみに中国では、割腹自殺は、日本と違い、むしろ武人でない者が自分の誠意を披瀝するための自決法であった。中国の武人の自決法は、腹ではなく自分の首を刀で切る「自刎」のほうが主であった[8]。
韓国
ヨーロッパ
ヨーロッパではドイツの地政学者で軍人でもあるカール・ハウスホーファーが、切腹自殺を遂げている。またモーリス・パンゲは古代ローマのマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスの自害に名誉のために殉ずる切腹の精神の起源を見ている[10]。
脚注
参考文献
- 千葉徳爾『切腹の話-日本人はなぜハラを切るか』(講談社現代新書)講談社 1972年
- 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』 東京堂出版、1994年9月 ISBN 4490202482
- 山本博文『切腹―日本人の責任の取り方』 光文社新書 2003年 ISBN 4334031994
- 山本博文『武士と世間』 中央公論新社 2007年8月 ISBN 978-4121017031
- 福田陸太郎監修 / 東京成徳英語研究会編著『OEDの日本語378』 論創社 2004年2月 ISBN 4846005003
- 加藤徹『怪力乱神』 中央公論新社 2007年8月 ISBN 978-4-12-003857-0 C0095
- モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(講談社学術文庫)2011年6月 ISBN 4062920549
関連項目
外部リンク
テンプレート:Link GA- ↑ 『日本の礼儀と習慣のスケッチ』、1867年出版
- ↑ 形としては切腹だが、晒し首にされている
- ↑ 江戸城大広間で林鵞峯が「武家諸法度」を読み上げたのち老中酒井雅樂頭忠清によって宣言された。
- ↑ 山本博文 『殉死の構造』
- ↑ A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』長岡祥三訳、講談社<講談社学術文庫1349>、1998年、153-154頁。原書は1915年刊。
- ↑ 山本博文 『武士と世間』
- ↑ 名和弓雄著『間違いだらけの時代劇』河出書房新社刊 1989年 P34~36記述より
- ↑ 加藤徹『怪力乱神』p66-p72
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 『自死の日本史』モーリス・パンゲ著、竹内信夫訳、第1章『カトーのハラキリ』