綱敷天神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:神社 綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)は、大阪市北区神山町にある神社。北野(喜多野、喜多埜)天神とも通称され、概ね旧西成郡北野村(キタの東半)を氏地としている。 茶屋町に当社の御旅社があり、角田町に境外社の歯神社(はじんじゃ)がある。
目次
由緒
社伝によれば、創建は平安時代、摂州菟餓野に嵯峨天皇が行幸した縁により、皇子の源融が天皇崩御ののち、追悼のためこの地に七堂伽藍を興し、太融寺を創建。嵯峨天皇を祀る社として「神野太神宮」を併せて創建したという。
後に菅原道真が無実の罪で大宰府へ左遷の折、この地に着いたところ、一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となるという。 この時、地元の者より「ゆりわ」なる器に団子を盛りて道真にすすめたところ、道真は大いに喜び、今も大事な神事の折にはこの「ゆりわ」に団子を盛って供えている。 また、追従の老臣、度会春彦の孫、春茂以下六名の者を集めさせ、この地に留まるように伝えた。道真と離れることはつらいことであるが、道真直々の言葉であればその帰りをいつまでもこの地にて待つとして、道真より白江の姓を賜り、別れた。
その後、道真は大宰府の地にて死去し、一族は、道真の愛でた紅梅の元に小祠を営み梅塚と称して道真を祀った。正暦4年に道真の無実の罪が解かれ朝廷より正一位太政大臣を追贈された折、この小祠と嵯峨天皇を祀る「神野太神宮」とを併せて祀るために社殿を建立。今に至るまでその春茂の子孫、白江家は神職として綱敷天神社に奉仕している。
祭神
祭事
- 1月1日 歳旦祭
- 1月2日 筆始祭
- 1月3日 元始祭
- 1月7日 若菜祭
- 1月15日 御粥祭(とんど祭)
- 2月3日 節分祭
- 2月11日 紀元祭
- 2月15日 祈年祭
- 2月25日 梅花祭
- 5月5日 玉姫稲荷神社例祭
- 5月15日 喜多埜稲荷神社、白龍社例祭
- 6月4日 歯神社例祭(歯ブラシ感謝祭)
- 6月25日 御誕辰祭
- 6月30日 夏越大祓
- 7月7日 七夕祭(御旅所)
- 7月15日 例祭
- 10月15日 秋祭(菊花祭)
- 11月3日 文化祭
- 11月23日 新嘗祭(勤労感謝祭)
- 12月31日 年越大祓、除夜祭
本社境内末社
- 喜多埜稲荷神社
- 白龍社
境外末社
- 歯神社
- 祭神:宇迦之御魂大神(稲荷神)
- 創建:不明
- 住所:大阪市北区角田町2番8号
御旅所
御旅所境内末社
- 玉姫稲荷神社
|
神宝
- 綱敷の御綱
- 綱敷天神根本御影
- 嵯峨天皇神影
- 綱敷天神社縁起絵巻
- 北野村領境総絵図
- 喜多埜天神太々神楽絵図
名所・旧跡
- 筆塚
- 萬載橋
- 戦災の狛犬
年表
<>は関連事項
- 822年(弘仁13年):<嵯峨天皇菟餓野に行幸>
- 843年(承和10年):<源融嵯峨天皇を祀る神野太神宮を創建>
- 901年(延喜元年)正月25日:<菅原道真左遷。その途中、当地に立ち寄り紅梅を愛でる。その際に船の艫綱を敷いたことが綱敷の名の由来。その観梅跡を梅塚と称し、従臣、白太夫の孫、春茂ら六人が小祠を祀り、梅塚天満宮と称す。>
- 993年(正暦4年):<菅原道真に正一位太政大臣を追贈。この時、道真の神霊を勧請し、神野太神宮の地に社殿を建立。併せて嵯峨天皇を合祀し、北野(喜多埜)天神と称する。>
- 1340年(暦応年間):<南北朝の戦乱に罹災。社殿神宝等焼失する。>
- 1461年(寛正2年):<当地に一夜にして七本の松が生い出、太融寺の僧、これを京へ告げるに、道真の霊験とし、北野天満宮より勅旨を賜り、社殿を再建する。>
- 1739年(元文4年):<宮座作法規矩制定。白太夫から続く白江家の祠職の筆頭を宗家とする旨が記載され、宮座としての制度が整う。>
- 1871年(明治4年):<上知令施行により、常安寺と号していた御旅所が破却され、神霊は才田の地(現在の西天満6丁目付近)に一時的に遷座する。>
- 1872年(明治5年):<茶屋町の住人より、町の氏神として綱敷天神社御旅所の神霊をお迎えしたいと敷地の寄進があり、茶屋町に御旅所を遷す。>
- 1945年(昭和20年)6月1日:<大阪大空襲により、社殿その他一切を全焼する。かろうじて神宝の綱と御影は難を逃れる。>
- 1956年(昭和31年)7月15日:<戦災より社殿の復興成る。>
綱敷天神社が登場する作品
- 浪華遊侠伝「俄」:司馬遼太郎(北野村についての記述あり)