細川忠隆

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テンプレート:基礎情報 武士 細川 忠隆(ほそかわ ただたか)は、安土桃山時代から江戸時代武将細川忠興の長男。慶長9年(1604年)の廃嫡後は長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号した[1]

生涯

文武に優れ、祖父・細川幽斎にも可愛がられていた。慶長4年(1599年)に幽斎が烏丸光広中院通勝らを招いて天橋立見物の歌会をした際にも加わり、忠隆が詠んだ和歌短冊丹後智恩寺に現存する[2]

廃嫡事件

慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫のいる隣の宇喜多屋敷に逃れた。

その頃、忠隆は忠興とともに会津遠征や岐阜城攻撃の途上であり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して種々の戦功を挙げ、内府(徳川家康)からの感謝状を得ている。ちなみに、関ヶ原前後における忠隆の松井興長宛自筆状5通が八代市松井文庫に現存しているが、それを見ると忠隆は自他ともに世子と認められている様子がうかがえる[3]

しかし、10月になって妻の千世が大坂玉造屋敷から逃れたことを咎められ、父の忠興から妻を離縁して千世の兄・前田利長のもとへ追い払うように命じられた。忠隆は千世との離縁に納得せず、彼女をかばって前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、ガラシャを失った忠興の怒りを買い、新領地の豊前国に赴くことなく勘当された。さらに慶長9年(1604年)には廃嫡されてしまった。千世は前田利家の娘であったため、前田・細川の姻戚関係を徳川家は好ましく思っていなかった。忠興はこの際に千世を離縁して前田との関係を絶とうとしたが、忠隆が承知しなかったことが廃嫡の原因であると、現在では解釈されている[4]

忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られている。

廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の固有所領を持ち京都に隠居在住していた祖父・幽斎が支えた。また、幽斎の死後に遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。

なお、史料では慶長10年(1605年)から同14年(1609年)に京都で休無に生まれた子供の徳(後に左大臣・西園寺実晴室)、吉、福(後に久世家初代・通式室)、万(早世)の4子女の母は千世であるとしている[5]。 つまり、千世は細川家からは離縁されたが、休無とは離縁していなかった。千世はのちに京都を離れて加賀国に帰り、加賀八家のひとつ村井家の長次に再嫁したが、その時期は慶長10年(1605年)ではなく幽斎死後の慶長16年(1611年)頃の可能性が高い[6]

忠興との和解

寛永3年(1626年)、忠興は京都毘沙門町の利休聚楽第屋敷跡にある休無邸を訪問して孫にも初対面し、25年ぶりに休無の勘当を解いたが、休無はその後も京で暮らし続けた。

休無は親戚にも当たる公家衆と親しく、その京都で和歌書『愚問賢注』や能謠、茶の湯などに親しんでいる。また隠居料を扶持されるようになって以降、徐々に京都公家衆との能や茶の湯などの文化活動サロンの長老的存在となった[7]。 後には、西園寺左大臣の岳父という立場から朝廷と細川藩を結ぶ役目もしたようである。京都の休無から弟の藩主・細川忠利宛の小倉城への手紙なども散見される[8]

寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解し[9]、八代領6万石を与えるので熊本で住むように申し付けた[10]が、休無は固辞して京都に帰った。

正保3年(1646年)に京都で死去、享年67。死去にあたり、忠恒と忠春に計2,000石分、徳(西園寺家御台所)やそのほかの娘達にも計1,000石分の隠居料相続を遺言し、実行された。

子孫

元和5年(1620年)に豊臣浪人長谷川求馬(伊豆)の娘・喜久を継室に迎えており、程なく2人の男子(忠恒、忠春)を得た。忠春の子が後に熊本藩一門家臣首座の細川内膳家(長岡内膳とも言う)6,000石となる。内膳家紋は五三桐と細川九曜紋のほかに、母ガラシャに因む裏紋として明智家の土岐桔梗紋がある。

内膳家2代の忠英(ただふさ)は藩校時習館の初代総長となり、その弟は熊本藩家老職を務めた。なお、政治評論家の細川隆元やその甥の隆一郎は忠隆の子孫にあたり、忠興とガラシャの血を受け継いでいる。

歴史小説

内容は、史実とは必ずしも一致しない。

  • 「千世と与一郎の関ヶ原」佐藤雅美著 講談社2009年1月26日初版
  • 「利休七哲(細川三斎:休無・細川忠隆の遺書 左方郁子著)」黒部亨編集 講談社1990年3月
  • 「戦国の幽齋とガラシャそして廃嫡後の忠隆」細川純著 2009年5月[1]

登場作品

脚注

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外部リンク

  • 大坂の陣以前の一時期は細川家は長岡姓を称していた。細川姓は主家のみに許されていたため、廃嫡された後は忠隆は細川姓を名乗らず、細川別名である長岡姓で生涯を終えた。子孫は明治維新後に細川姓を称した。
  • (下記智恩寺の外部リンク)
  • 八代市立博物館史料 林千寿ほか
  • 林千寿「細川忠隆の廃嫡と忠利の後嗣」『関ヶ原合戦と九州の武将たち』八代市立博物館平成十年度特別出版物
  • 「細川忠隆家譜」(熊本大学(財)永青文庫および細川亙所蔵)
  • 「廃嫡後の細川忠隆」(細川純著・編/熊本県立図書館蔵)
  • 「近世初期京都能楽界動向」天野文雄、能楽研究会六麓会/長田あかね他
  • 福岡県史 近世資料編の細川小倉藩Ⅰ-Ⅲ:熊本大学永青文庫分館/川口恭子ほか
  • 綿考輯録二十五巻((財)永青文庫蔵)および内膳御家譜地(所蔵:熊本県立図書館および細川隆康
  • 上妻文庫細川忠雄家譜(熊本県立図書館蔵)