石坂周造
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石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日(1832年2月2日) - 明治36年(1903年5月22日)は、幕末の彦根藩士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は宗順(そうじゅん)。
近江国に生まれる。
江戸で清河八郎と共に尊皇攘夷運動に荷担し、「虎尾の会」に参加する。幕府を欺いて浪士組を結成。浪士組(後、新選組と新徴組に分離)頭取の一人に就任して文久3年(1863年)3月、京都に入った。京都に入ってからも清河八郎らと尊皇活動を続けて、水戸藩出身の芹沢鴨や佐幕派の近藤勇らに反感を買う。石坂自身も上洛道中より近藤達に良い感情を抱いていなかったらしい。
やがて京都から江戸へ帰還するよう命令が下ると、大半の浪士達を率いて江戸へ戻るが、幕府を欺いた罪により同年4月13日、幕臣・佐々木只三郎らに清河八郎は斬殺され(この時石坂は八郎の首と攘夷党への連盟状を奪い返している)、石坂もまた翌14日に幕吏に包囲されて5年間投獄された。預かり先を転々としながら幕府瓦解を獄中で過ごし、慶応4年(1868年)3月15日に山岡鉄舟預かりの身となる。 妻の桂子は高橋泥舟の妹であり、桂子の姉・英子は鉄舟の妻である。
その後赦免されて民間事業に取り組み、石油産業で成功した[1][2]。1871年(明治4年)東京に長野石炭油会社を設立[3]。アメリカから輸入した綱掘り式掘削機械で相良油田から石油を採集した。
明治36年(1903年)、死去。享年72。鉄舟が建てた全生庵(東京都台東区谷中)に眠る。
関連項目
外部リンク
- ~回天の魁士 清河八郎~ - 山形県庄内町のサイト。清河八郎関係人物録に石坂周造についての説明がある。