知恵
知恵(ちえ、智慧、テンプレート:Lang-el-short プロネーシス, テンプレート:Lang-la-short, テンプレート:Lang-en-short, テンプレート:Lang-sa-short)は、道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。特に「智慧」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「智」は相対世界に向かう働き、「慧」は悟りを導く精神作用の意[1]。
知恵と知識の関係については、様々な考え方がある。知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。
互いに知恵を競い合うことを、「知恵競(くら)べ」(賢(かしこ)争い)という[2]。
各文化における知恵
古代ギリシャの哲学において、知恵もひとつの重要なテーマとして論じられた。例えば「徳」と日本語では訳されているものの中に、これに合致する部分も多い。
老子の第十八章には「知恵出でて大偽あり」という表現が見られ、かつて人々が素朴であった時代には、人々は自然に従って生きており平和だったが、後に人間の知恵が進んで、不自然なこと人為的なことが行われたので、大きな偽り(大偽)が生じ、世の中が乱れてしまった、と述べられている。
旧約聖書には、アダムとイブが、「知恵の実」(知識の実)を食べて性的羞恥心が芽生えた、との描写が見られる。その一方でその「知恵の実」が原因でアダムとイブは楽園を追われた、という描写も見られる。
大乗仏教では、「論書」(アビダルマ)に表現されているような分析的議論に明け暮れる説一切有部を中心とする部派仏教を批判する形で、『般若経』や龍樹・中観派によって、分別的な知恵(ジュニャーナ, jñāna, 若那, 智)を超えた無分別の智慧(プラジュニャー, 般若)が釈迦の悟りの境地として賞揚され、普及された。したがって、大乗仏教では両者を区別するのが一般的である[3]。
「知恵」の含まれる表現、物
- 知恵熱(乳幼児に知恵が付き始めるころに突然起きる発熱の俗称。母親由来の免疫が減少することによって起きる発熱で、「知恵」は時期をあらわすだけで直接の関係は無いとされる。英語ではteething fever。歯が生え始めることから。)
- 知恵の輪
- 知恵歯
- 知恵の駒(正方形の枠の中に16個駒を配置、一駒だけとり除き、その空き地を利用し、1~15の駒を番号順に並べるゲーム)
出典
関連項目
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