無外流
無外流(むがいりゅう)は、延宝8年(1680年)に辻月丹により開かれた剣術の流派である。
歴史
辻月丹(幼名:兵内)は、近江国甲賀郡出身で、京都で山口流剣術を学んだ後、江戸で道場を開いた。その傍ら麻布の吸江寺で石潭良全のもと禅を修行し、延宝8年(1680年)に石潭から「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動著則光清」という偈を得たことにより、流儀の名を無外流とした。
最盛期には大名小名30数家、直参150人あまり、陪臣にいたっては1000人以上もの門人が集まり、日本全国に広まった。土佐藩では上士の学ぶ剣法とされ、幕末の四賢侯の一人、山内容堂もこの流儀の剣術を学んでいる(居合は無外流ではなく、長谷川英信流を学んだ)。
また、前橋藩にも伝わり、江戸中期に姫路に転封後は剣術指南役の高橋家を中心に姫路藩にも広まった。この系統は高橋派と呼ばれる。
人物
新選組三番隊組長であった斎藤一が無外流の使い手であったという説がある。また明治から昭和初期の剣道家で「警視庁の三郎三傑」と言われた高野佐三郎、高橋赳太郎、川崎善三郎のうち、高橋、川崎は無外流の遣い手(高橋は姫路藩の無外流高橋派、川崎は土佐藩の無外流土方派)であり、ともに大日本帝国剣道形制定委員を務めた。
池波正太郎の小説『剣客商売』で、主人公の秋山小兵衛・大治郎父子が無外流の達人という設定になっている。
最近の研究
比較的謎の多い無外流、および流祖・辻月丹について、最近の研究においてはその謎が(全てとはいかないが)かなりの部分まで明らかとなっている。これまで明らかとなっていたと思われていた時系列や、各解釈なども、同じ文献を元とした誤った解釈であったことが可能性として考えられている。
無外流の、現代に残る剣法十則(十剣)についても、それまでの解釈の誤りを正し、さらに多くの資料から研究を重ねた結果、身体運用について記述されたものでなく、心法について石潭禅師が亡くなる頃に書かれたものである可能性も出てきている(剣よりも禅に近かったとも考えられる)。
すなわち、これまでの各方面における解釈・意見が、全て何かしら(精神性、身体運用、剣の型)を前提とした思い込みであった可能性が高い。また、そもそも決まった型が無かったという可能性がかなり高い。