清末藩
清末藩(きよすえはん)は、長門国に存在した藩。藩庁は清末陣屋(現在の山口県下関市清末)。
長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であり、長州藩の孫藩にあたる。長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称する。江戸武鑑では当初「長門新田」と表記されていたが、毛利政苗による再興以降は「清末」と表記されるようになる。
沿革
藩主は毛利氏。始祖は長府藩初代藩主毛利秀元(毛利元就の孫)の三男・毛利元知である。長府藩と知行地が交雑しているが、石高はおよそ1万石であった。
承応2年(1653年)、毛利元知が、甥に当たる長府藩主毛利綱元から1万石の分知を受けて立藩した。これは、慶安3年(1650年)に没した秀元の遺言によるものである。長州支藩の長府藩からの支藩という異例の立藩については、長府藩祖である毛利秀元の女婿で老中・稲葉正則への強力な働きかけで実現したものとも言われている。
享保3年(1718年)、2代藩主元平が断絶していた長府藩を再興するため転出したため(長府藩6代藩主毛利匡広)、藩は一旦断絶した。享保14年(1729年)、元平の死に際し、七男毛利政苗に1万石が分知され、清末藩が再興された。
4代藩主匡邦は藩校・育英館を創設するなど藩政改革に努めたが、財政の窮乏化を招き、内部対立も進んだ。匡邦の嫡子が早世したことから、縁戚に当たる5代政明を養子に迎えたが、匡邦以降の藩主も他家からの養子が入ることが続いたため、家中騒動が多かった。毛利氏は長州藩やその支藩の吉川氏の岩国藩を除き、家紋(代紋)はいずれも「一文字三星」を使用しているが、伊達氏の「竹に雀」や徳川一門の「三葉葵」と同様に、それぞれが少しずつ違うものとなっている。
歴代藩主
- 毛利家
外様 1万石
- 元知(もととも)〔従五位下、刑部少輔〕
- 元平(もとひら)〔従五位下、甲斐守〕
- 政苗(まさなり)〔従五位下、讃岐守〕
- 匡邦(まさくに)〔従五位下、讃岐守〕
- 政明(まさあき)
- 元世(もとよ) 〔従五位下、讃岐守〕
- 元承(もとつぐ)〔従五位下、出雲守〕
- 元純(もとずみ)〔従五位下、讃岐守〕
幕末の領地
関連項目
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