深南部 (タイ)
深南部三県 |
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タイの深南部(しんなんぶ)とは、マレーシアとの国境付近、南部のパッターニー県を中心とする地域を指す。具体的には、主にパッターニー県・ヤラー県・ナラーティワート県の三県(深南部三県)にある程度のマレー系住民の住むソンクラー県を加えてこう呼ぶ。
住民はマレー系が多く、現在でもタイからの独立を目指す動きがある。同じくマレー系住民の多いサトゥーン県については、歴史的にテンプレート:仮リンク(Kedah Kingdom、630年-1136年)やタイと親密な関係を保ったテンプレート:仮リンク(Kedah Sultanate、1136年-現在)の支配する地域であったため、後述するがパタニ王国復興を掲げた運動には関わらないことが多く、テロ活動の文脈では含まれないことが多い。
注:以下の文では中立的な観点からマレー語的表記である“パタニ”を王国時代の表記あるいはマレー人的観点からの用語に対して遣い、タイ語的表記である“パッターニー”をタイ編入後の地名表記に使用した。
歴史
初期の歴史
現在のタイ南部にはテンプレート:仮リンクが存在した。この王国は現在のマレーシアのクダ州・クランタン州・トレンガヌ州、およびタイ国のパッターニー県(パタニ)・ヤラー県(ジョロール)・ソンクラー県(シンゴラ)・サトゥーン県(ストゥール)を領有していた。この王国は初期にはヒンドゥー教を国教としていたが、イスラーム化が進行し[1]、後の15世紀中期にイスラーム化した。
パタニ王国は、ヨーロッパや中国・日本との貿易により17世紀にはマレー半島の貿易の中心として黄金期を迎えたが、王国は常にスコータイ王国やアユタヤ王国の服属下にあったため独立を求めて度々争った記録がある。
パタニ王国は、パタニ王国内部の政争に加え、18世紀後半にはソンクラーに親タイ的な華人の政権が誕生しパタニに代わる交易拠点として発展を遂げたため、その貿易拠点としての価値が減じた。その後マレー半島を狙っていたタイに進出の機会を与えてしまう。
タイによる併合
タイがビルマによって滅ぼされ、タークシン王朝をもって復興し、ラーマ1世がチャックリー王朝を建てる18世紀には、パタニ王国は非常に衰退していた。パタニはアユタヤ王国の後継者を自称する新生タイへの服属を拒否したため、タイ軍がパタニに遠征し、この時ラーマ1世の子であるスラシー親王はスルタン・ムハンマドを殺しパタニを完全に支配下に置いた。この時の記録によると4,000人にも及ぶパタニ人がバンコクに連れて来られ、運河を掘る労役をさせられたと言う(現在彼らは宗教面以外で同化し、タイ人を自称)。
その後1791年から1808年までパタニはタイ政府に対し抵抗を試みているが、タイはパタニを分割統治することでその力を削ぎ抵抗を押さえ込んだ。パタニは1837年にもモハマッド・サードの大乱を起こしてタイ政府を悩ませた。1882年にはパタニは正式にタイへ編入され、タイ人知事がタイ中央から派遣されるようになった。1902年にパタニ国のスルタン制は廃止され、続く1909年にタイ政府が大英帝国との間に結んだバンコク条約によりパタニ領のタイ領化が国際的に承認され、旧パタニ王国はモントン(州)を形成した。その後1933年のモントン解体により、現在の深南部三県が成立した。
パタニ国
第二次世界大戦時には、タイは日本と同盟した。この時タイは旧日本軍に対しマレー半島の英領マレーに対する優越を認めた。その一方でパタニ独立運動の指導者であるトゥン・マフムッド・マフユッディンは日本の敗戦によるパッターニー独立を条件にイギリスと同盟した。一方でパッターニーの住民は戦時中のピブーンソンクラーム首相によるラッタニヨム(愛国信条)に頭を痛めていた。この信条には仏像に礼拝するなどの項目が含まれていたからである。1945年日本は敗戦し、その後イギリスの約束通りパッターニーが独立するかに見えたので、住民はパタニ国旗を揚げたという。
その後の経過
イギリスは約束を反故にし、パッターニーは再びタイ領へ戻った。その後、いくつかの独立を目標とするグループが組織された。先述のトゥン・マフムッド・マフユッディンは自身がパタニ王国のスルタンとなる独立を目指していたが、一方でハッジ・スロン・トックニマの支持する路線は旧イランのようなイスラーム革命を行った国を理想とするパタニ・イスラーム共和国をうち立てようとしていた。なお現在では、パタニ連合解放組織が有力な組織である。
タイ政府はイスラーム人口の多い南部四県への国民統合政策を実施した。ソンクラー県は福建系華人と仏教徒の移住者が多く、ハジャイが南部の経済中心都市としてタイ中央やペナンとの関係を維持した。一方サトゥーン県はもともとテンプレート:仮リンクの一部であって、日常的にはタイ語が使われタイ文化との接触が大きかったため、統合の経過は比較的穏やかである。しかし、日常的にマレー語を使っておりマレー・イスラーム意識の強い深南部三県においては、タイ国への同化に激しい抵抗が生じている。
深南部三県では国王襲撃事件など度々事件が起きていたが、政府の開発が大きく遅れたことや、汚職公務員や汚職警官などの「島流し」先としてこの地域が使われたため、深南部三県はあまり好ましい条件であるとはいえなかった。さらに、この地域のマレー人意識が強い人々は、タイ政府の学校には通わずこの地域やクランタンに特有のポンドック(あるいはポーノと呼ばれるイスラーム寄宿学校)に通いタイ語教育を拒否する者が多かった。また、教育の機会を中東の大学に求めてイスラム教とアラビア語の知識を深めたが、タイでは雇用の機会を得られず、貧困が深刻化していった。
パタニ地域の分離独立運動が激化したのは1950年代と1970年代である。タイ政府の強権的なゲリラ掃討作戦は却って中東の過激なイスラーム主義運動にムスリム住民をなびかせる結果となった。1980年代にはタイ政府は方針を転換し、一般タイ人へのムスリムへの理解を深める文化政策や地域への援助を含む開発策を講じ、1990年にはマレーシア側との軍事・開発協力計画が成立し、この地域の治安は一旦沈静化したかのように見えた。
だが、タイ人・華人資本家による南部開発政策は、結果として富裕層と貧困層の溝を広げた。2000年以降、半島を横断するガス・パイプラインの建設を巡り、NGOやムスリム住民による反対運動なども起こっている。
タイ南部紛争
テンプレート:Main タクシン・チナワットが首相になるやいなや、タクシンの強権的な政治体制が深南部三県の住民を刺激し事態は一気に悪化した。2004年4月28日には、大規模な武力衝突がクルーセ・モスクで起こっている。
このような反政府運動の多くはパタニ王国再興を掲げており、栄光の時代であったパタニ王国時代への強い回帰指向がうかがえる。その上で、栄光を奪い貧困の原因を作った(と彼らが考える)タイ政府を敵視し、独立すればかつての栄光が戻るという希望がこのような運動を生み出した背景であるともいえる。また、このような運動の高まりとしてアメリカ同時多発テロ事件が引き金になっているとも指摘されている。
2011年現在、深南部三県ではイスラーム武装組織による爆弾テロや軍や警察車両を狙った襲撃事件が多発しており、これに国境付近で活動する地元の麻薬密輸組織も襲撃事件を起こし、治安は最悪の状況である。イスラーム武装組織のテロの標的は政府機関だけでなく公立学校や教師も標的となっている。テロの死傷者の数はムスリムと仏教徒の半々の割合である。
仏教僧殺害事件なども起こっていることから仏教対イスラム教との構図で捉えられることもある。実際、深南部三県ではムスリム人口の方が多いにも関わらずモスクの数が少ない。逆に仏教徒人口が少ないにも関わらず仏教寺院が多く建設されている。また、断食月(ラマダーン)の最中でも、これとは関係の無い仏教徒が飲食を行うため、ムスリムの中には自分たちの宗教が蔑ろにされている、尊重されていないと感じ、仏教徒に対する反感の土壌になっているとの指摘もある。逆に多数派タイ人(仏教徒)の間には、深南部三県でテロが続発していることから「ムスリム=テロリスト」という偏見が広がっているとされる。一方で、こうした住民対立を解消しようと地元のNGOが対話活動を行っている。[2]
タイ政府もこうした事態を深刻に受け止め、インフラ整備や福祉拡充などを行っているが、山間部では住民支援にも治安の悪さから軍の同行が必要なのが実情である。2006年9月19日のタイ軍事クーデター以降、親タクシン派の反独裁民主戦線(UDD)と反タクシン派の民主市民連合(PAD)による国を二分する対立にタイ政府が忙殺され、深南部三県まで政府の対策の手がまわらないという悲観的な見方もある。