毛利宗広
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テンプレート:基礎情報 武士 毛利 宗広(もうり むねひろ)は、長州藩第6代藩主。第5代藩主毛利吉元の五男。正室は越前松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。諱は初め維広(これひろ)、後に徳川吉宗の偏諱を拝領して宗広に改名。
経歴
享保2年(1717年)7月6日生まれる。長兄で嫡子だった毛利宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く。その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中、の出来事として、寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請がある。
しかし、寛延4年(1751年)2月4日、35歳の若さで死去した。世嗣となる男児がいなかったため、藩は、支藩である長府藩から毛利重就を末期養子として迎える。
偏諱を与えた人物
- 毛利広信(右田毛利家)
- 毛利広定(広胖)(広信の養子、重就の実兄。※広定については父の匡広から賜った可能性もある。)
- 毛利広漢(広氏/広景)(阿川毛利家)
- 毛利広圓(大野毛利家)
- 井原広似(長州藩士。前藩主毛利吉元期の家臣、井原孫左衛門元歳の子と思われる。次男に熊谷就直がいる。年代から判断して就直の養父・熊谷元貞の子である井原就正は広似の養子と思われる。)
- 宍戸広周(広満)(宍戸氏、安芸熊谷氏の出身で熊谷就直の義兄にあたる。)
- 宍道広慶(廣慶)(益田就高の子、宍道氏を継ぐ)
- 椙杜広周(椙杜氏、椙杜元縁の孫)
- 福原広門(広茂)(宇部領主福原家)
- 益田広尭(須佐領主益田家、宍道広慶の実兄)
- 益田広高(問田益田家)
- ※死後
- 毛利重広(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世。)