桑 (松型駆逐艦)
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艦歴 | |
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発注 | 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画 |
起工 | 1943年12月20日 |
進水 | 1944年5月25日 |
就役 | 1944年7月25日 |
その後 | 1944年12月3日戦没 |
除籍 | 1945年2月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:1,262t 公試:1,530t |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
主缶 | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
燃料 | 重油370t |
乗員 | 211名/247名[1] |
兵装 | 40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) |
桑(くわ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の5番艦である。日本海軍の艦名としては2代目。藤永田造船所で建造され、1944年(昭和19年)7月25日竣工。12月3日、フィリピン、レイテ島のオルモック湾で米駆逐艦と交戦し沈没した。
戦歴
就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)第四十三駆逐隊に編入[2]。瀬戸内海に回航され、8月3日から8月30日までは輸送任務に従事中の軽巡洋艦「長良」に代わって第十一水雷戦隊の旗艦を務める[3]。8月30日に旗艦の任務を軽巡洋艦「多摩」に移してからは[4]訓練を再興する。10月4日からは空母「海鷹」とともに対潜掃討任務に従事する予定だったが[5]、整備の遅れにより任務は取り止められた[6]。
10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のテンプレート:仮リンクに上陸し、日本軍は捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、機動部隊は豊後水道を出撃。10月22日に空母「千代田」から重油の洋上補給を行うも、予定の100トンに対して75トンしか補給できなかった[7]。機動部隊は10月23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成し、これにより空母「瑞鳳」の左後方に位置する[8]。10月25日朝、機動部隊はテンプレート:仮リンク沖でついに第38任務部隊の艦載機による空襲を受ける(エンガノ岬沖海戦)。数度にわたる空襲を受けすべての空母を失い、小沢中将の命を受けて「瑞鳳」と空母「瑞鶴」の生存者救助任務を行う[9]。17時20分までの救助作業の結果、「瑞鳳」艦長杉浦矩郎大佐以下847名を救助した。「若月」「初月」とともに更に救助作業を行うも、ローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊の攻撃を受け避退[10]。10月26日に中城湾に帰投した。
11月2日付で第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入り[11]、次いで南方に進出する戦艦「伊勢」「日向」を護衛して11月9日に門司を出撃する[12]。11月15日に「杉」「樅」「樫」「檜」とともに第五十二駆逐隊を編成[13]。「伊勢」「日向」とは南沙諸島長島で別れ[14]、第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した[15]。11月23日付で第五十二駆逐隊は第三十一戦隊に編入され、「榧」が加わって6隻体制となった[16]。この頃、レイテ島オルモック湾への輸送作戦である多号作戦が依然続行中であり、第七次多号作戦に参加することになった。
11月30日午前[17]、第七次多号作戦で駆逐艦「竹」、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦と第三梯団を構成してマニラを出撃した。「竹」はこれまでに第三次、第五次の多号作戦に参加していた。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[18]。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[18]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[18]。そして、三度目の作戦[18]としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) 、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[19]は18時30分にレイテ湾を出撃し[19]、オルモック湾に急行した。しかし、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[20]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[19]。
12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、南方の哨戒を開始した[21]。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[22]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[22]。第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[23]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[24]、一方的に叩きのめされて沈没していった。その後、「竹」の雷撃によりクーパーを撃沈し、浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった。第三梯団の指揮官を兼ねていた駆逐艦長山下正倫中佐以下多くの乗員が戦死し、海上に放り出された生存者は「竹」に対して声をかけたり[25]、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという[26]。「竹」の駆逐艦長・宇那木勁少佐は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼したが[27]、生存者のその後の状況は定かではない。1945年(昭和20年)2月10日に除籍。
2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて、旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見される。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と、松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認。これにより、ほぼ「桑」と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。
歴代艦長
艤装員長
- 山下正倫 中佐:1944年7月2日 -
艦長
- 山下正倫 中佐:1944年7月25日 - 12月3日戦死
脚注
参考文献
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127600
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
- 第一機動艦隊司令部『昭和十九年十一月十日 機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報 自昭和十九年十月二十日至同年十月二十九日 比島沖海戦』(昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030036600、C08030036700
- 軍艦瑞鳳『軍艦瑞鳳戦闘詳報 自昭和十九年十月二十日至昭和十九年十月二十五日捷一号作戦』(昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦瑞鳳捷1号作戦戦闘詳報(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030582300、C08030582400
- 宇那木勁「T型駆逐艦(竹)戦誌」(昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030751400
- 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日~昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
- 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』朝日ソノラマ新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9
- 「歴史群像」編集部『太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦―簡易設計ながら生存性に秀でた戦時急造艦の奮戦』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603251-3
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
- 『孫たちへの証言 第13集「特別号・21世紀への伝言」第二部 国外での体験』(新風書房、2000年)ISBN 4-88269-455-7
- 香港ラジオテレビ(RTHK)『8花齊放(特別外判系列)第三集 "桑號~Finding KUWA"』(2006/5/19放送)
関連項目
テンプレート:松型駆逐艦- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.7
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.53
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.4,8,11,33
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.33
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.9
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.13
- ↑ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.19,20
- ↑ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.24 、木俣, 534ページ
- ↑ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.46
- ↑ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036700, pp.4
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.47
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.56
- ↑ 野村, pp.10
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.58 、野村, pp.10
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.59
- ↑ 宇那木, pp.14
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 ニミッツ、ポッター, 401ページ
- ↑ 19.0 19.1 19.2 木俣, 565ページ
- ↑ 木俣, 565、566ページ、ニミッツ、ポッター, 401ページ、渡辺, 319ページ
- ↑ 宇那木, pp.16
- ↑ 22.0 22.1 木俣, 566ページ
- ↑ 宇那木, pp.17
- ↑ 木俣, 567ページ
- ↑ 宇那木, pp.21 、木俣, 567ページ
- ↑ 木俣, 568ページ
- ↑ 宇那木, pp.21