村上弘
テンプレート:政治家村上 弘(むらかみ ひろむ、1921年9月24日 - 2007年3月22日)は広島県因島市(現:尾道市)生まれの政治家。第3代日本共産党委員長(中央委員会幹部会委員長)。名誉役員。元全逓信従業員組合大阪地方協会会長。1972年の総選挙で大阪3区(分区前)から初当選、分区後も大阪3区から衆議院議員を通算4期務めた。
来歴・人物
10人兄弟の5番目の子として生まれる。
逓信省逓信官吏練習所行政科を卒業。戦時中は兵士として広島にいたため原子爆弾の脅威を目の当たりにした。1947年日本共産党入党。1948年阪神教育事件で連帯の挨拶をしただけで首謀者とされ、占領政策違反で大阪刑務所に服役、1年8ヶ月投獄される。党の50年分裂では所感派に属する。その後日本共産党大阪府委員長を務め、1972年横田甚太郎衆議院議員の後継者として大阪3区で衆議院議員初当選。明るい革新大阪府政をつくる会の代表委員として黒田了一大阪府知事や日本社会党の亀田得治大阪府本部委員長らと大阪の政治革新を進めた。日本共産党の国会対策委員長、政策委員会責任者、幹部会副委員長などを歴任。
1987年4月に不破哲三委員長が「心臓病」として入院すると委員長代行となり、11月の中央委員会で委員長に選出された。委員長時代には参院補選での吉井英勝候補(現衆議院議員)の応援など全国各地を飛び回った。また外交面では韓国を承認し赤旗記者を派遣するなど、それまでの党の方針を改めた。しかし1989年2月、滋賀県での演説中に脳血管障害による眼筋麻痺を起こし、5月29日に委員長を辞任。宮本顕治議長は金子満広書記局長に委員長代行を兼務させたが、6月8日の第五回中央委員会総会で不破副議長が委員長に再任された。委員長辞任後は、全ての党役職から退き国会議員も引退している。2007年3月22日、肺炎のため死去。テンプレート:没年齢。
略歴
- 1967年 大阪府知事選挙落選
- 1972年 衆議院議員選挙初当選(1期目)
- 1976年 幹部会副委員長就任
- 1976年 衆議院議員選挙落選
- 1979年 衆議院議員選挙当選(2期目)
- 1980年 衆議院議員選挙当選(3期目)
- 1983年 衆議院議員選挙落選
- 1986年 衆議院議員選挙当選(4期目)
- 1987年 幹部会委員長就任
- 1989年 幹部会委員長辞任
- 1990年 衆議院議員引退
- 1997年 名誉幹部会員
- 2000年 名誉役員
エピソード
- 実際に原爆の惨状を見たこともあり核廃絶の運動にも関わった。中曽根康弘首相が被爆者に対して「病は気から」と発言すると、これに対して「被爆者の気持ちを理解していない」と批判した。また原爆投下直後、水を求める被爆者に水を飲ませると助からないと聞いていたため水を与えなかったが、後年「せめて水を飲ませてやったらよかった」と後悔している。
- 落選したとき旧大阪3区は人口が多かったため投票数が10万票を超え、涙の10万票とメディアに取り上げられた。また10万票以上を獲得した落選者による特別番組では旧神奈川2区で落選した小泉純一郎と討論している。
- 座右の銘は「人の言うことをよく聞く」で、常に心がけるために額に入れて事務所に張っていた。
- 村上弘の知人が議員宿舎に泊まっていた時、風呂場に害虫が現れた。知人が害虫を殺そうとしたところ、「虫と言えども命がある。それを無闇に殺すのはやめてくれ。生かしておいてやってくれ」と言って止めたという。
- 旧大阪3区を大切にしており毎週末は必ず地元で街頭演説を行っていた。委員長に就任してからは回数は減ったが、それでも月に2、3回は地元に帰ってきていた。
著書
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
不破哲三
|style="width:40%; text-align:center"|日本共産党委員長
第3代 : 1987年 - 1989年
|style="width:30%"|次代:
不破哲三
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