李完用
テンプレート:基礎情報 李氏朝鮮の朝臣 李 完用(り かんよう)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。日本による韓国併合に大きな働きを果たした。
生涯
京畿道広州生まれ。光緒9年(1883年)に科挙に合格し、光緒13年(1887年)からアメリカ合衆国で3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。
開国504年(1895年)の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、大院君派の政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。建陽元年(1896年)に高宗がロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、金弘集政権を瓦解させた後に外部大臣(外務大臣)に就任する。翌年には学部大臣(文部大臣)になるが、ロシア公使ウェーベルと対立し、地方に転出される。光武5年(1901年)には中央に戻り、親米派の立場をとって親日勢力を圧迫するが、光武8年(1904年)の日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。
光武9年(1905年)、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は反対派により乙巳五賊に数えられている。
光武11年(1907年)、韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って、伊藤博文と共に日本に対し反抗的な高宗に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやるなどして第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った。
隆熙3年(1909年12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われる。全身を刺され重傷を負ったが、一命をとりとめた。
隆熙4年(1910年)8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。
8月21日に韓国統監府承認のもと、純宗から全権委員に任命され、22日に韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)を調印し、この事から後に庚戌国賊に数えられるようになる。その後、日本の下で伯爵の爵位(朝鮮貴族)を与えられ、大正9年(1920年)には陞爵して侯爵となった。大正15年(1926年)には大勲位菊花大綬章を授与されている(李王家以外の朝鮮人では戦前唯一の授与)。
同年、肺炎により死去した(李在明に襲撃された際に片方の肺の機能を失っており、この事が原因とされている[1])。
評価
併合反対派からは併合の元凶と看做され非難されたが、同時に彼への同情や、共感も存在していた。それを表すエピソードとして、その葬儀は国葬でもないにも関わらず、葬列が数キロに達したという[2]。
独立後は韓国植民地化の元凶の一人としての評価が強まり、憎悪を一身に受けた。そのため現在でも韓国・北朝鮮において李完用の名は親日派(チンイルパ)、売国奴の代名詞とさえなっている。韓国政府によって公式にも親日反民族行為者に認定されている。
2005年に韓国において親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布された際にも、親日反民族行為者財産調査委員会は、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下された[3]。
李完用は韓国の将来を考え、自主独立への道を模索していたといわれる。独立協会の創設者の一人となっているが、日本に近づくも日本語を決して学び、話すことはなかった[4](日本人との会話では英語を使用した[1])。独立新聞の記事にも、李完用を批判する記事は一つも載っていない[4]。
また、当時から書道家としても評価が高かった。著書に『一堂紀事』(一堂紀事出版所、1927年)がある。
李完用を政治家として尊敬し、評価している人物として在日特権を許さない市民の会の桜井誠がいる。
脚注
関連項目
関連書籍
- 金明秀編 『一堂紀事』, 一堂紀事出版所 (1927) (韓国国立中央図書館デジタルライブラリー所蔵) OCLC 15656481
- 윤덕한(尹ドク漢) 『이완용 평전 (李完用評伝)』, 중심 (中心), 1999. ISBN 8995040416
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