木之本興三

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テンプレート:サッカー選手 木之本 興三(きのもと こうぞう、1949年1月8日 - )は千葉県出身の元サッカー選手

人物

選手時代は古河電気工業サッカー部(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)に在籍。引退後日本サッカーリーグ(JSL)事務局長、総務主事を務め、森健兒と共に、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創生のほとんどを担った[1]。Jリーグ発足後は社団法人日本プロサッカーリーグ理事及びジェイリーグ映像株式会社、ジェーリーグフォト株式会社、株式会社ジェイリーグエンタープライズ社長を兼任した[2]

日本サッカー協会ではワールドカップ2002年大会に向けた強化推進本部副本部長を務め、本大会では日本代表団長となった。本大会を直前に控えてフィリップ・トルシエが選考した23人のメンバーを発表した。大会期間中、ホテルで意識を失ったり、バージャー病に冒されたことが判明した[3]

2003年、当時の川淵三郎日本サッカー協会会長、及び鈴木昌Jリーグチェアマンに解任される[4]

現在は(株)エス・シー・エス代表取締役、フクダ電子アリーナ名誉会長、アブレイズ千葉SC代表を務め多忙な日々を送っている。

2009年4月からは、サッカーからマネージメントと地域連携を考えることを目的として千葉大学と連携で教育課程普遍講座の講師を自身でも務めると共に、幅広い交友関係でサッカーに関わる様々な人物をゲストティーチャーとして招いて、それぞれの切り口からサッカーのマネージメント地域との関わりについて授業を展開している( 千葉大講義)。

経歴

現在、株式会社エス・シー・エス:代表取締役、フクダ電子アリーナ名誉会長

2008年4月1日フクダ電子スクエアにてアブレイズ千葉SCの代表となる。スクールマスターは永井良和

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1972||古河||||JSL1部||||0||colspan="2"|-|||||||| |- |1973||古河||||JSL1部||||0|||||||||||| |- |1974||古河||||JSL1部||||0||colspan="2"|-|||||||| |- |1975||古河||||JSL1部||||0||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始10||0|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終10||0|||||||||||| |}

日本サッカーリーグでの改革事項

  • JSLのPR(釜本邦茂のヌードポスターの製作)[5]
  • 森健兒と共にJSL活性化委員会の創設(名目的にはJSLの改革検討委員会であるが実質的なプロリーグ化検討委員会)[6]

評価

同級生が博報堂に勤めていた事がきっかけで、上記の第20回日本リーグの公式ポスターに「格闘宣言」の惹句で釜本邦茂のヌードポスターを製作した[5]

森健兒と木之本がいなければJリーグ創設はなかったと言われる[1]

その他

病魔に冒されながらも、Jリーグの創設に挑んだ木之本の人生はNHKドキュメンタリー番組、『プロジェクトX』にも取り上げられた。また、『日刊ゲンダイ』では「Jリーグへの遺言」というタイトルで、木之本の人生やこれまでのサッカー関係者との付き合いが本人によって書かれている(2006年11月21日付~12月18日付まで連載)。『週刊ポスト』2007年9月14日号誌上で「独裁者川淵に怒りの引退勧告」のタイトルで川淵三郎キャプテンを批判している。

日本代表監督の契約を終えたフィリップ・トルシエ(現オマル・トルシエ)から「いつまでも健康で」との別れのメッセージを貰っている。

ジーコが木之本に会うなり「キノモトサーン! ゲンキー?」と日本語で声をかけた場面がTVで流れた。

2014年1月27日20時Eテレで放送されたハートネットTVに出演した。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

  • 1.0 1.1 #回想p71-73
  • #両足309頁
  • 3.0 3.1 FLASH 2012年6月26日号 28頁 2002日韓W杯「あの人」「あの聖地」の今
  • #両足309-31、3524頁
  • 5.0 5.1 #両足92頁
  • 平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦』p163