日本丸
日本丸(にっぽんまる)は、1930年(昭和5年)1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水した、日本の航海練習船で大型練習帆船。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれている。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退した。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。姉妹船として海王丸がある。
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初代日本丸
1927年(昭和2年)3月、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」は千葉県銚子沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事が発生した。この事故が契機となり、1928年(昭和3年)大型練習帆船2隻の建造が決定された。2隻の建造費は合計182万円、当時の国家予算(軍事費および国債費を除いた一般会計予算:約8億7千万円)からすると破格の大型プロジェクトであった。
設計はスコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社、建造は神戸の川崎造船所が担当した。1930年(昭和5年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」、同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。同年3月31日には艤装を終え、文部省に引き渡された。同年にはミクロネシアのポナペ島へ初の遠洋航海を行った。
その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海にて石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送した。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送といった特殊輸送任務に従事した。1952年(昭和27年)、ようやく帆装の再取り付けがなされ、翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。
1984年(昭和59年)9月16日の退役まで、約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。その後、海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現・日本丸)が担っている。
現在は横浜市の日本丸メモリアルパークにて展示公開されている。
主要諸元
- 船種(帆装型式) - 4檣バーク型帆船
- 総トン数 - 2278トン
- 全長 - 97 m
- 全幅 - 13 m
- メインマスト高 - 46 m(水面からの高さ)
- 吃水 - 5.3 m(平均)
- 総帆数 - 29枚
- 定員 - 138名
- 他 - ディーゼル機関による機走可能
日本丸II世
日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸II世が就航した。日本丸II世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。住友重機械工業浦賀工場で建造された。
先代の日本丸に比べて帆走性能が大幅に向上しており、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポットトロフィー」を1986年(昭和61年)、1989年(平成元年)、1993年(平成5年)と三回受賞している。
なお、日本丸II世と姉妹船の海王丸II世(1989年(平成元年)就航)を見分けるための大きな違いは、舳先にある船首像である。日本丸II世の船首像は手を合わせて祈る女性の姿をしており、「藍青(らんじょう)」と名付けられている。海王丸II世の船首像は横笛を吹く女性で、「紺青(こんじょう)」と名付けられている。
主要諸元(日本丸II世)
- 船種(帆装型式) - 4檣バーク型帆船
- 総トン数 - 2570トン
- 全長 - 110.09 m
- 全幅 - 13.80 m
- メインマスト高 - 43.5 m(船楼甲板からの高さ)
(東京港のレインボーブリッジをくぐれる最大高さに設計されたと言われている)
- 喫水 - 6.57 m
- 総帆数 - 36枚(横帆18枚、縦帆18枚)
- 最大搭載人員 - 190名
- 他 - ディーゼル機関(2基)による機走可能
- 主機型式 - ダイハツ 右舷機:6DSMB-28NS 左舷機:6DSMB-28NSL
- (マストが船底まで貫通しているため主機を中心に配置することができない)
その他の日本丸
日本丸 (九鬼水軍)
古くは文禄の役に参加した大安宅船である九鬼水軍の「日本丸」がある。当時の九鬼水軍当主九鬼嘉隆自らが設計にあたり、元の名は「鬼宿(きしゅく)丸」と呼ばれていたが、その偉容に感じ入った豊臣秀吉により「日本丸」と命名されたといわれる。兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。異説では、九鬼嘉隆は織田信長の命により世界最初の鉄甲船を数隻作っており、その中の1隻がこの日本丸であるともされるが、この説では信長による命名となる。
大きさは全長は151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m弱)、千五百石積み、百挺櫓で将士・水主(かこ)を合わせて180人が乗り組んだというが、大きさについては全長十五間(約27m)、幅五間(約9m)との異説もある。甲板上に三層の楼閣を設け、大筒を三門備えた当時としては類を見ない巨船であった。帆は順風の時のみに使用し、漕走を主とした。
文禄の役では九鬼水軍の旗艦として数度の海戦に参加しており、『志摩軍記』には朝鮮勢の攻撃を寄せ付けないその偉容ぶりが記されている。同役では多数の船舶が失われたが日本丸は生き残り日本に帰還している。のち鳥羽に回航され、九鬼氏の後に鳥羽城主となった内藤伊賀守忠重によって500石積み60挺立の船に縮小改造の上「大龍丸」と改名された。これ以降は幕府の持舟であった様で、寛永年間の江戸を描いた『江戸図屏風』内の船行列には最大の船として、幕府の船印と船手頭向井氏の旗印を付けた「大龍丸」の姿がある。後に内藤家が断絶した後も、引き続き幕府より預かった鳥羽藩の持ち船として使用され、老朽化のため1856年(安政3年)に解体されるまでほぼ江戸時代を通して残存したとされる。これが事実であれば260年あまりの船齢であったことになる。
一般に木造船の寿命は長くとも20年程度であり、200年以上使用されたとすることには疑点もあるが、実際に200年以上存在した木造船として、関船天地丸(1630年(寛永7年)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船となる幕末までの230年以上の間、将軍の御座船として存在した。しかも廃船の理由は老朽化ではなく、幕末には軍船として旧式化したためである)の実例があり、維持管理しだいでは200年以上の存続も不可能ではないといえよう。
日本丸 (東洋汽船)
明治時代にはイギリスで建造された東洋汽船所有の汽船、日本丸級貨客船「日本丸」がある。サンフランシスコ航路の貨客船として1898年(明治31年)より就航した。
1904年(明治37年)には海軍に徴用され、75mm砲2門などを搭載し特設艦船の一種の仮装巡洋艦として日露戦争に参加した。日露戦争では日本丸を含む11隻[1]の仮装巡洋艦が参戦したが、哨戒などの任務が多く戦没は無い。
艦長
- 梶川良吉 大佐:1904年1月18日 - 1905年6月14日
- 成川揆 大佐:1905年6月14日 - 1905年11月4日
日本丸 (山下汽船)
神戸川崎造船所で1936年(昭和11年)6月に完成した石油タンカーで、海軍に徴用されるまで樺太(サハリン)、ボルネオ、北米などの石油を日本へ運んだ。1941年(昭和16年)9月には海軍に徴用されて宿毛湾や有明海などで洋上補給の訓練を経て、真珠湾攻撃、キスカ撤退などに参加した。その後の1944年(昭和19年)1月14日に、航空燃料を満載して海軍のトラック島基地に向かう途中、アメリカの潜水艦の雷撃を受け大爆発を起こし16名の乗組員を乗せたまま沈没した。
艦長
- 指揮官
- 竹原九一郎 予備海軍大佐:1943年10月15日 - 1944年1月14日戦死 ※同日、海軍少将に特進。