崇禎帝

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テンプレート:基礎情報 中国君主 崇禎帝(すうていてい)は、朝第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗隆武帝による)、懐宗による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪儉揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が荘烈愍皇帝と改めた。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした[1]

生涯

第15代皇帝であった泰昌帝の第5子として生まれた。天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子が皆夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。即位すぐに、兄帝の下で専横を奮った宦官・魏忠賢を誅殺し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。

当時は北に満州族の後金が進入し、南では李自成たちの反乱が多発したまさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。

崇禎帝は天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺してまわり、特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた感のあった名将袁崇煥を誅殺した事は致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名、巡撫(省長)11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。

崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するために増税を行った事により窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。

崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落。崇禎帝は危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官すべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、妻妾と娘たちを斬り(皇后は自害)、紫禁城の北にある景山で首をつって自殺した。享年34。

娘の長平公主朱徽媞を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、朱徽媞は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。

人物

  • 崇禎帝は少なくとも彼なりに国の事を案じて大変な努力をしていた。李自成が西安で皇帝に即位した時も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが……」とある程度の評価をしている。その猜疑心により全てが裏目に出て自滅した崇禎帝だが、その原因は明が既に亡国の淵にあり、更には国政に与る士大夫層が長年の政治的腐敗により使い物にならず、信用ならない存在であることを突きつけられたことにあるといえる。滅亡寸前の明朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。

宗室

ファイル:Beijing Jingshan Park.JPG
景山の崇禎帝自害の地に建てられた碑文
  • 后妃
    • 荘烈愍皇后 周氏
    • 貴妃 袁氏
    • 恭淑皇貴妃 田秀英
    • 順妃 王氏
    • 献愍太子(明悼帝) 朱慈烺(1629年-1644年)-呉三桂により一時擁立されるが、崇禎帝の死後間もなく病死。
    • 怀隠王 朱慈烜(1630年)-生後間もなく夭折。
    • 定哀王 朱慈炯(1631年-1644年ごろ?)-李自成の乱で斃死?南明時代に追封される。
    • 永悼王 朱慈炤(生没年不詳)-1642年に永王追封が行われているので、それ以前に没しているとみられる。
    • 悼霊王 朱慈煥(1633年-1708年)-明の滅亡後、王氏を名乗り僧侶として暮らしていたが、後に還俗。清の康熙年間に謀反の罪を問われ、一族もろとも刑死した。
    • 悼懐王 朱慈燦(1637年-1639年)-夭折。
    • 坤儀公主
    • 長平公主 朱徽媞
    • 昭仁公主

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:明の皇帝
  1. 清が崇禎帝の正統性を認め、独自の廟号・諡号を贈り、陵墓を造営したのは、清が李自成を逆賊と見なし、自らが明の後継者としてこれを討伐することを「入関」の口実としたからである。