魏忠賢

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魏忠賢(ぎちゅうけん 1568年 - 1627年10月19日)は、中国、明朝時代の宦官。本名李進忠

北直隸粛寧県(今の河北省粛寧県)の出身。無頼の生活を送り、多額の借金を背負った末に一念発起して宦官となる。天啓帝の乳母に接近し、皇帝の即位後に重用される。東林派(清議派)ら宮中の争いを利用し、1623年には秘密警察である東廠の長官となる。

天啓帝に代わって政務を壟断し、尭天舜徳至聖至神(ぎょうてんしゅんとくしせいししん)と名乗り、さらに自分の一党の者に自分に対して「九千歳」と唱和させ(「万歳」は皇帝にしか使えないため)、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇った。

翌24年には左副都御史の楊漣らが24の罪状で魏忠賢を弾劾すると、東林党らの大弾圧を指揮する。26年には西湖の湖畔に生祠を築造させる。27年天啓帝が死去し、弟の崇禎帝が即位すると罪を糾弾され、鳳陽へ左遷される途中に逮捕の報を聞き、阜城李朝欽と共に首を吊って自殺した。遺体は磔にされ、首は晒し者にされた。さらに、彼の一族も処刑された。