山田有栄
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山田 有栄(やまだ ありなが、天正6年(1578年) - 寛文8年9月2日(1668年10月7日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。山田有信の嫡男。子は山田有隆。通称は弥九郎、民部少輔を自称する。晩年の号は昌巌。
経歴
天正15年(1587年)、父の有信が高城にて九州征伐軍である豊臣秀長に降伏したとき、その人質として差し出された。その後、朝鮮出兵にも従軍し武功を挙げる。
慶長3年(1598年)、大隅福山の地頭に任じられ、伊集院忠真の誅殺、関ヶ原の戦いなどに参戦し、島津氏の家臣団の中でも大いに活躍し軍功を挙げる。特に関ヶ原の戦いでは「軍功並ぶものなし」と言わしめた。
寛永6年(1629年)、薩摩出水地頭に就任。出水兵児と称される気風を造ったとされる。後に島津氏の家老となり、江戸時代の島津氏家臣団の教育や産業開発に努めた。島原の乱においては島津家中の名代となり総大将として出陣している。万治2年(1659年)の時点で2,020石を有した。