尾山神社

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尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市に所在する神社

祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。旧社格は、別格官幣社。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社がある。神門は津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日

歴史

慶長4年(1599年)前田利家が没すると前田利長は、そのを祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になるとの財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり前田土佐守家の前田直信が代表になり明治6年金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は、明治11年、宇多須神社となっている。

1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、明治4年7月卯辰山天神社に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行なわれた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。

1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行なっている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門はオランダ人ホルトマンの設計によるもので、長谷川準也・大塚志良の兄弟により1874年(明治7年)8月に計画され、津田吉之助によって建てられた。日本で最初の避雷針を建立時に備えた。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。

1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行なわれた。

1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日-5日には昇格慶賀祭が行なわれた。

祭礼

1891年(明治24年)は前田利家による金沢城修築(1592年(天正20年))より300年目であったため、初代金沢市長稲垣義方らが金沢城修築三百年祭を行なうことを提案し、同年10月11日-15日に行なわれた。11日の祭典には、前田利嗣夫妻も出席して執り行われた。祭典費として利嗣は1000円を寄付している。また天皇は幣帛料20円を下賜している。13日には初めての神輿渡御がかつての前田家行軍式(備押)を模して行なわれた。

1899年(明治32年)は、前田利家の死後300年にあたり、前田家の旧家老八家であった本多政以横山隆平長克連らの計画で、前田利家三百年祭(封国祭)が行なわれた。期間は4月27日から5月3日の7日間であった。29日に前田利嗣を祭主に、前田利同を副祭主にして祭祀が執り行われた。石川県知事志波三九郎が奉幣使として参列した。神輿渡御が1日2日に行われたが、大盛況だったという。

現在毎年6月中旬に行なわれている百万石まつり1923年(大正12年)より封国祭にあわせて金沢市祭として行なわれるようになった奉祝行事に起源するものである。終戦により、尾山神社奉賛会が主催となり市祭としては行なわれなくなったが、1952年(昭和27年)より金沢市と金沢商工会議所が中心となって行なわれている。

文化財

  • 神門 - 国の重要文化財
  • 神苑 - 県指定名勝
  • 東神門 - 登録有形文化財

交通アクセス

  • 公共交通:JR北陸本線金沢駅より北陸鉄道グループバス「香林坊」方面行き乗車「南町」バス停下車、徒歩5分。

参考文献

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、18頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、85頁
  • 羽賀祥二『明治維新と宗教』(筑摩書房 1994年)

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外部リンク

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