少弐景資

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少弐 景資(しょうに かげすけ)は鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人少弐資能の三男。武藤 景資とも。

生涯

元寇に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資と共に蒙古軍と戦った。『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、景資は十月二十日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官のひとり(征東左副都元帥)であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている[1]。弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。

父・資能の死後、兄・経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年鎌倉で有力御家人の安達泰盛内管領平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後守護代であった安達盛宗と共に筑前で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。

竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』には、小勢で出陣する季長を大将として見送る景資の姿も描かれている。

登場作品

関連項目

脚注

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