少弐経資
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
少弐 経資(しょうに つねすけ)は鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。少弐資能の子。少弐氏の当主。武藤 経資とも。
概略
父存命中から共に北九州の統治に当たり、元寇に際しては異国警固体制を整え、元の使者への対応や九州御家人たちの指揮、石築地の築造工事の統括、蒙古合戦の勲功配分とその調査などを行った。
文永11年(1274年)の文永の役では、経資の弟・少弐景資が日の大将として日本軍を指揮していたが、この時の経資の動向に関する史料は無く、詳細は不明。1275年、父から家督と所領を譲り受ける。 弘安4年(1281年)の弘安の役における壱岐島の戦いでは、負傷しながらも元軍を相手に奮戦して勝利し、壱岐島から蒙古軍を駆逐した。しかしこの戦いで、子の少弐資時を失う。その後も大友頼康と共に鎮西奉行の一人として、九州の軍政にあたった。
弘安7年(1284年)、執権・北条時宗が死去したのを契機に出家し、浄恵と号した。翌年の霜月騒動では平頼綱側に与して、安達泰盛側に与した弟の景資と泰盛の子安達盛宗を討ち取った(岩門合戦)。この戦いの結果、北条得宗家の鎮西支配が強化されて、少弐氏の勢力は削られ、筑後・豊前・肥前・肥後の守護を失った。正応5年(1292年)に死去。
参考文献
- 鎌倉・室町人名事典(新人物往来社)
関連項目