大友頼康
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大友 頼康(おおとも よりやす、貞応元年(1222年) - 正安2年9月17日(1300年10月30日))は鎌倉時代中期の大友氏第3代当主。鎌倉時代の御家人。名は頼泰とも表記する。大友親秀の子。母は佐原家連の娘。子に大友親時。「頼」字は幕府の執権・北条時頼から賜ったもの。
はじめは御家人として京都や鎌倉で活動していたが、元寇の危機が強まると幕命により鎮西東方の奉行に任命され、九州の軍政を担当した。文永11年(1274年)の文永の役では鳥飼潟の戦いで元軍を破り、元軍の侵攻を阻止した。弘安4年(1281年)の弘安の役では志賀島の戦いで奮戦して金方慶や洪茶丘らが率いる元軍に大勝し、元軍を志賀島から駆逐した。その後は高齢のため、隠棲したと言われている。
大友氏はこの頼康の時代に豊後国に土着し、大名として北九州に次第に勢力を拡大していくことになったのである。