対馬島の日
テンプレート:国際化 テンプレート:Infobox 対馬島の日(テマドのひ)とは、大韓民国の慶尚南道馬山市議会が2005年3月18日に制定した記念日である。通称として「対馬の日」とも呼ばれる。日本の島根県が制定した「竹島の日」に対抗して制定された記念日で[1]、「対馬島の日」条例には「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と明記されている[2]。2010年7月1日に馬山市は昌原市・鎮海市と合併し、新たに「昌原市」として発足し、現在は同市の条例になっている。
日韓国境に関する歴史経緯
魏志倭人伝には「対馬国」が倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属したことが記されている。「対馬国」の地誌については、同書は以下のように説明している。 テンプレート:Quotation
- 訳;はじめて一つ海を渡る。一千余里ある。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
元寇(文永の役、弘安の役)の際には、モンゴル帝国(元)・高麗連合軍の侵略を受けて、陥落している。また、朝鮮王朝時代には、倭寇の本拠地として、朝鮮側の侵略を受けている。(応永の外寇)
第二次世界大戦直後、韓国の初代大統領に就任した李承晩(在任1948年 - 1960年)は、完全に歴史的事実に反して「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした日本が対馬を武力で占領した」「決死の抵抗を行った(対馬の)義兵がこれを撃退し、義兵の戦蹟碑は対馬の至るところにある」「1870年代に対馬を不法占拠した日本は、不法に所有した領土をポツダム宣言によって返還することになったのだから、韓国に返すべきだ」などと述べ[3]、対馬及び竹島(韓国名:独島)の領有権を主張した。この時の領有権主張はGHQが1951年8月に出したラスク書簡によって却下されたが、その翌年の1952年1月にいわゆる李承晩ラインが韓国側によって一方的に設定され、竹島がその内側に入れられたことから、竹島は以後日韓両国が互いに領有を主張する領有権問題の地となった。一方、李承晩ラインの外側に外れた対馬は、以後長く領有権の係争対象として扱われなかった。
「対馬島の日」制定の背景
竹島に関して、韓国は一方的に警備隊を上陸させ施設の構築を行ったり、竹島海域での軍事演習を行うなど、実効支配を強化する方策をたびたび実行してきた。日本政府もそのたびに韓国政府への抗議を発表し、竹島の領有権を継続的に主張してきた。しかし、日本側がこのような領有権の主張を行うたびに、韓国ではキジ科の鳥(日本の国鳥はキジである)を惨殺したり、日の丸や時の首相の肖像を燃やしたりするなど、日本に対する抗議行動が巻き起こった。
2005年2月22日、こうした問題への認知を求めるため、竹島を管轄する日本側の都道府県である島根県は「竹島の日」条例を制定する。これに対し、韓国側ではやはり抗議行動が発生し、韓国外交通商部も「竹島の日」制定を非難する声明を発表する事態となった。
このような中、朝鮮海峡(対馬海峡)に面する市で、竹島問題には当事者性が無く関与権の無い自治体である慶尚南道馬山市の市議会が、同年2005年3月18日に制定したのがこの「対馬島の日」条例である。
なお、「対馬は韓国領」という主張は、この「対馬島の日条例」が制定されたことによって巻き起こったものではなく、それ以前の比較的早い段階から叫ばれてきた主張である。実際、独島博物館(1997年開館)の正面入り口に「対馬はもともと我々の領土」(対馬島本是我国之地)という碑石が設置されたのは2002年8月であり、それをさらに遡る2001年5月には「対馬島は我々の領土」という曲が発表されている。また、2004年7月に小泉首相が訪韓した際に開かれた集会(反日デモ)では、主催者らが「対馬を韓国に返還するよう日本に促す一方、韓半島への侵略の歴史を謝罪」するよう求めている[4]。
地理的位置関係と対馬
朝鮮語における対馬島(テマド)とは文字通り日本の長崎県北方にある対馬の事であり、竹島から南西方向に最短距離で約 355 km、朝鮮半島からは南東に最短距離で 49.5 km、竹島と同様に海上を走る日本と韓国の国境付近に位置している。しかし、この島は古来から日本の領土であると広く世界的にも認識されており、李承晩政権時代などごく一部の例外的な事象を除けば韓国側が領有権を主張したことはない。
一方、この条例を制定した馬山市は、日本と韓国を隔てる海であり対馬の浮かぶ朝鮮海峡(対馬海峡)に面してはいるが巨済島に隔てられた鎮海湾の奥に位置し、対馬からの距離はむしろ釜山広域市や慶尚南道巨済市の方が近い。また対馬は総面積 0.23 km²の竹島のような小さな島ではなく、約 700 km²の面積と約 3.5 万人の人口があり、島が単独で日本の市となっている(長崎県対馬市)。
条例内容と事態の推移
2005年3月18日、馬山市議会は第109回臨時会を開いて「対馬島の日」条例案を緊急に上程し、出席者全員の賛成で可決した(議員数30人、欠席1人)。市議会では当初、島根県の「竹島の日」条例の廃棄を促す決議案を論議していたテンプレート:要出典が、より攻撃的にしようという雰囲気が強くなり「対馬島の日」の条例の制定に至った。
この条例の目的は、対馬島、つまり対馬が韓国の領土であることを内外に主張し、領有権を確保することにある。記念日は6月19日であるが、これは1419年の応永の外寇の際、李氏朝鮮軍の将軍李従茂が対馬征伐のために馬山浦を出発した日である[5]。
一方、韓国外交通商部は代弁人の論評を通じて「不必要な論議を誘発する可能性が高い」と馬山市に自制を求めた[1]。
対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『対馬島の日』条例の廃止を要請したが、馬山市議会は、「対応する価値がない」として条例を廃止しないことを明確にした[6] 。
報復心理
産経新聞の黒田勝弘ソウル支局長は、「対馬は韓国領」という主張には竹島問題に起因する日本への報復心理が働いており[7]、独島博物館の「対馬はもともと韓国の領土」という石碑も、日本が竹島の領有権を主張するなら我々は対馬の領有権を主張するという趣旨である、と指摘している[8]。
対馬では実際に韓国資本により土地の購入が進んでいる。観光開発とみる一方で、自衛隊基地周辺の土地も購入されていることから政治的意図を懸念する声もある[9]。
脚注
- ↑ 馬山市議会が「対馬島の日」条例を可決 朝鮮日報2005年3月18日
- ↑ 馬山市議会、「対馬の日」条例案を可決 朝鮮日報2005年3月18日
- ↑ 「対馬は韓国領」説に歴史的根拠あり(上) 朝鮮日報2008年7月27日
- ↑ 「対馬は韓国領土」 小泉首相訪韓反対集会朝鮮日報2004年7月21日
- ↑ 우리 땅 '독도'를 지키자 Korean National Security Net 2007-07-13
- ↑ NAVER/釜山日報 2006-11-02 12:42
- ↑ 対馬は報復心理の対象? 共存と対立の歴史(1) 産経新聞2008年10月23日テンプレート:リンク切れ
- ↑ 対馬は報復心理の対象? 共存と対立の歴史(2) 産経新聞2008年10月23日テンプレート:リンク切れ
- ↑ | 対馬で韓国資本が不動産購入 地元は「国の力が必要です」