富井政章
富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。勲一等瑞宝章受章、男爵。
人物
京都聖護院宮侍だった富井政恒の長男として現在の京都府京都市に生まれた。
民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[1]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。
富井の主張は、穂積八束の主張した「民法出デテ忠孝亡ブ」といったようなイデオロギー的なものではなく、錯雑した「講義録」のような法典を実施すればフランス註釈学派の二の舞になって学問の進歩が阻害されてしまう[2]、不平等条約改正の道具としてではなく国の実状に適したものとしての法典であるべきというあくまで学者としての立場からの慎重論であった[3][4]。
富井は、民法起草においても、学者的立場から慎重をもって旨とし、法実証主義・ドイツ法一辺倒の立場に立ち、実務的立場から迅速をもって旨とし、自然法論・フランス法にも親和的な立場に立つ梅としばしば対立し[5]、穂積陳重と共に日本のドイツ法学導入の先駆者とされる。もっとも、旧民法起草当時日本にドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、また富井自身も梅、穂積と異なりドイツに留学したことはなかったため、民法のできる前は特にドイツ法の思想を主張したことは無かった。しかし、富井付きの起草補助委員だった仁井田益太郎がドイツ語に精通していたため、彼の手になるドイツ民法草案第一・第二の翻訳を通じてよくドイツ法の思想を消化し、「近世法典中の完璧とも称すへきもの」[6]であるとしてほとんどドイツ法一点張りで民法を作ろうという勢いであったとされ(仁井田の回想による)、日本民法学におけるドイツ法的解釈の端緒を切り拓いた[7]。なお、法典調査会においてはヴィントシャイトやデルンブルヒの体系書にも言及しており、これらの書のフランス語訳版をも読んでいたものと推測されている[8]。
他方、国の実状を直視し、沿革的・比較法的研究を踏まえつつも法の不備を認め[9]、要点を簡明に明らかにして裁判官の運用にゆだねるべきとするのが、法典論争からの一貫した主張であり、主著『民法原論』に現れたように、それが学風となっている[10]。
長年にわたり東京帝大の民法講座を担当し、後に鳩山秀夫に引き継がれることになる東大民法学の基盤を確立。理路整然、簡にして要を得た名講義であったと伝えられる[11]。
留学時代の猛勉強から病弱であったが、健康に気を使ったため結果的に起草三博士の中で最も長命であった[12]。しかし、慎重を期する性格のため、梅が民法典全分野についての著書『民法要義』を僅か五年ほどの内に完結したのに対し、富井の民法原論はついに債権総論の上巻までしか日の目を見ることはなかった[13]。
晩年には穂積重遠らと共に民法改正(親族法・相続法)の改正にも着手したが、戦争によって頓挫し、これは後に中川善之助・我妻栄らに引き継がれることになる。
刑法では、ボアソナードの弟子の宮城浩蔵らがフランス新古典派・折衷主義の立場をとっていたのに対し、犯罪の急増する社会情勢に対応できないと批判していち早く主観主義をとる新派刑法理論を主張した。その理論は、社会防衛論を基礎とする厳罰的主観主義で、現行刑法の成立に大きく寄与した。
日露戦争前夜には主戦論を唱え、七博士の1人として七博士建白事件に関与した。
幻の胸像
1927年(昭和2年)、富井の学長辞任を受けた立命館大学では、在任27年の功績を讃え、校友会が中心となって胸像を贈る計画が持ち上がった。富井も一旦は胸像制作を受諾したが、あとになって延期を申し出ている。下記は胸像延期要請の書簡の一部である(1928年(昭和3年)1月22日付)。
- 「極て質素ならば云々と申上候得共其後篤と相考候に小生是迄相当の功績ある人に対しても存命中より其像を作りて表彰することは平素の時論として常に不賛成を表し候たる事のも有之然るに今自分が殆ど有名無実の学長たりにしも不拘存命中より眞先に校内に胸像を置かるることは如何にも心苦しき次第に有之、各位の御厚意は心底より感謝する所にて精神上御請到候と寸毫も相異なる所無之只此際実行は御見合せ被下候....今後或機会に立命館の創立者として多年一日の如く献身的に全力を注ぎ居らるる中川館長の分を作らるる際同時に実行せらるることならば左迄目立ちもせずじで御請出来可申歟と存候に付き兎に角此際は一先御延期の事に相願度」(立命館学誌一一九号13頁(現文旧字体カタカナ表記)、1928年11月15日)
家族・親族
妹のマサが法政大学創立者の一人薩埵正邦の妻であるため、薩埵正邦は富井政章の義理の弟にあたる。富井と薩埵はともに官立の京都仏学校で、レオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下[14]でもあり、東京法学校(現法政大学)の講師時代には薩埵宅で同居していたこともあった[15]。
エピソード
留学の経験から、コーヒーとチーズを好物としており、民法編纂時にも小田原の伊藤博文の別荘に持ち込んで、コーヒーを自分で挽いて飲むことを常とした。チーズは高級な臭いものを特に好み、伊藤邸の戸棚の中に入れておいたため、戸棚が臭くなり女中が閉口したという[16]。チーズに蛆が湧いてくると、そういうのがうまいのだといって、蛆を掻き分けて食べたという話が伝えられている[17]。
略歴
- 京都中学校、官立の京都仏学校を経て上京。
- 1874年 東京外国語学校仏語科に入学。
- 1877年 私費でフランスに留学し、博物館で働きながらリヨン法科大学院に入学。学部時代の最終成績は2位で奨学金を得て博士課程に進み、優等の成績で法学博士等三つの法学位を取得して卒業(博士論文「ローマ法及びフランス法における代金不払による買主の解除権」)。
- 1883年 東京法学校(現法政大学)講師。
- 1885年 東京大学法学部教授。
- 1886年 帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授。
- 1891年 貴族院勅選議員。
- 1892年 民法商法施行取調委員[18]。
- 1893年 法典調査会民法起草委員。
- 1895年 帝国大学法科大学長。
- 1900年 京都法政学校(現立命館大学)校長(1904年まで)。和仏法律学校(現法政大学)校長(10月~1902年10月)。
- 1905年 立命館大学学長(1927年まで)。
- 1906年 帝国学士院会員。
- 1916年 宮内省御用掛。
- 1917年 内大臣府御用掛。
- 1918年 枢密顧問官、常設仲裁裁判所裁判官。
- 1919年 勲一等瑞宝章受章。
- 1926年 華族に列し、男爵に叙される。
- 1928年 民法改正調査委員長。
- 1934年 日仏会館理事長。
系譜
- 富井氏
┏茂木克彦 茂木孝也━┫ ┗朝子 ① ┃ 石坂泰三━石坂泰夫 ┃ ┃ ┃ 中村是公━━━━秀 ┣━━━石坂泰章 ┃ ┃ ┃ ┣━━章子 ┃ ┃ ┃ ┏富井周 小谷真生子 富井政章━━━┫ ┗淑 ┃ ┏植村泰忠 ┣━━┫ ┃ ┗和子 植村甲午郎 ┃ ┃ 渋沢栄一━━渋沢正雄━━渋沢正一
著書
- 『民法原論第一巻総論』(有斐閣)
- 『民法原論第二巻物権』(有斐閣)
- 『民法原論第三巻債権総論上』(有斐閣)
- 『債権総論完』(信山社)
- 『債権各論完』(信山社)
- 『損害賠償法[講義]原理』(信山社)
- 『刑法[明治13年]論綱』(信山社)
脚注
- ↑ 杉山直治郎編『富井男爵追悼集』154頁(有斐閣、1936年)
- ↑ これに対し、講義録体の旧民法を支持する立場からは、条文を国民が読むことを想定しないものであるとの批判がある。内田貴『債権法の新時代「債権法改正の基本方針」の概要』8頁以下(商事法務、2009年)一方で、民法の改正は委員会だけの仕事ではないのであって、国民全体の議論が必要であるが、これは別個の本によるべきで、いかに成文民法が改正されても、新たな判例法と慣習法が発達するためこれらを不要にはできないのだから、むしろ成文民法はより簡潔にして広範な判例・慣習法の発達に委ねるべきとの主張もある。穂積重遠『民法読本』14-16、21頁(日本評論社、1927年)、穂積陳重『法典論』第五編第六章(哲学書院、1890年、新青出版、2008年)
- ↑ 前掲・富井男爵追悼集155-169頁
- ↑ 大村敦志「富井政章」『法学教室』186号32頁
- ↑ 仁井田益太郎=穂積重遠=平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」法律時報10巻7号15頁
- ↑ 富井政章『民法原論第一巻総論』序5頁
- ↑ 仁井田ほか・法律時報10巻7号24頁
- ↑ 仁井田ほか・法律時報10巻7号24頁、ハインリヒ・デルンブルヒ著・坂本一郎=池田龍一=津軽英麿共訳『獨逸新民法論上巻』序文(富井執筆)(早稲田大学出版部、1911年)、平井宜雄ほか『新版注釈民法3総則』27頁
- ↑ 法の不備を認めるものとして、特に富井著『民法原論第一巻総論』71頁、『民法原論第三巻債権総論上』85頁
- ↑ 大村・前掲法教32頁
- ↑ 前掲・富井男爵追悼集162頁
- ↑ 前掲・富井男爵追悼集46、112-114頁
- ↑ 財産法分野に関しては、非公式の講義録によって学説の全貌をうかがい知ることができる。
- ↑ デュリーの記念碑が京都南禅寺に建立された1899年、その除幕式に出席するため、梅謙次郎とともに東京から駆けつけている(岡孝「明治民法と梅謙次郎」『法学志林』88巻4号、1991年)。
- ↑ 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩埵正邦と明治日本の産業社会』(書籍工房早山、2008年)
- ↑ 法律時報10巻7号18頁
- ↑ 法律時報10巻7号19頁
- ↑ 委員長西園寺公望、委員は富井政章・梅謙次郎ら12名。