安藤重信

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テンプレート:基礎情報 武士 安藤 重信(あんどう しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名安藤基能の次男。

生涯

徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して西軍方の真田昌幸が守る信濃国上田城攻めに参加した。慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件大久保忠隣改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた。

同年の大坂の陣に参戦し、特に夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後の処理を担当した。

元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子に迎えた外孫の重長が継いだ。

怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた供の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を1周したという伝説もある。


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