妬み
妬み (ねたみ、テンプレート:Lang-en-short、テンプレート:Lang-la-short) とは、「自らの持たない優れた特質、業績、財産などを他者が持つときに起こる、それらへの渇望、ないしは対象がそれらを失うことへの願望」[1]である感情。羨望とも呼ばれる。
バートランド・ラッセルは妬みは不幸の最も強力な原因であると述べた[2]。 妬み深い人々は自らを不幸にするだけでなく、他者が不運に苦しむことを望むからである。妬みは一般に否定的に捉えられるが、ラッセルは妬みが民主主義へと向かわせる原動力であり、より公正な社会制度実現のために認容されなければならないと考えた[3]。 近年、心理学者は悪性の妬みと良性の妬みの2種類があると考えており、良性な妬みは動機付けの一種として捉えられている[4][5]。
目次
嫉妬との比較
テンプレート:Main 「妬み」と「嫉妬」は通俗的には同じ意味で用いられるが、厳密には異なる2つの感情である[1]。 嫉妬が愛着している誰か(例えば恋人)、ないしは保有している何かが他者に奪われた結果、ないしは奪われることへのおそれであるのに対し、妬みは自らが欲望するにも関わらず所有しないものを他者が所有していることに対する腹立たしさである[6]。
精神分析における羨望
羨望の感情は精神分析の理論の発展のなかで数多くの論者によって考察されてきた。メラニー・クラインは、羨望を自分がもっていないものを他者が有している時に生じる怒りの感情と表現した。羨望の感情は特に自己愛的な人々(自己愛性パーソナリティ障害)に顕著に見られ、自分が有していないものを持つ人々に対する否定的感情や激しい怒りとして生じるものである。
哲学
アリストテレスは『弁論術』において、妬み (φθόυος、phthonos) とは「他者の幸運によって引き起こされる痛みである」と定義している[7][8]。 また、イマヌエル・カントは『道徳形而上学原論』において、妬みとは「我々の幸福が他者の幸福によって翳らされたことによる失望である。なぜなら我々の幸福感とは先天的なものではなく、他者との比較によるからである」と述べている。
宗教
ヒンズー教
クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて「妬まず、誰に対しても共感する友であるもの…そのような帰依者がもっとも好ましい」と述べている。
ヒンズー教において、妬みは破滅的な感情であるとみなされている。ヒンズー教は精神のバランスを崩すものは何にしろ不幸につながると考えている。この考えはマハーバーラタにおいて、ドゥルヨーダナが従兄の財産に対する妬みからテンプレート:仮リンクを起こすという形でも示されている。彼は「父よ!パーンダヴァ (従兄)の財産が私を焼きつくします!彼が私より豊かであると知って、食べることも眠ることも、生きることすらできません」と述べている。
それゆえヒンズー教では、妬みの対象は前世の因果を受け取っているだけであることを認識して、この感情を克服するよう教えている。マハーバーラタにおける敵対者と同じ運命に苦しまぬよう、そのような歪んだ感情を持つべきでないとしている。
キリスト教
妬みはカトリックでは七つの大罪の一つとされている。創世記においては、妬みはカインの犯した兄弟殺しの動機とされている。これは神がカインよりも兄弟であるアベルの供物を好んだためである。
イスラム教
イスラム教において、妬み (テンプレート:Lang-ar-short、Hasaad ) は心の不純物であり、善行を無に帰すものであると言われているテンプレート:要出典。各人は神の意志に満足し、造物主の公正を信じなければならない。ムスリムは嫉妬で他者を苦しめることを禁じられているテンプレート:要出典。
ムハンマドはサヒーフ・アル=ブハーリーおよびサヒーフ・ムスリムにおいて「互いに妬み、憎しみ、敵対し、関係を断ち切ってはならない。兄弟としてアラーの下僕であるべきである。ムスリムがその兄弟と会って言葉を交わさなかったのち、3日以上離れていることは許されない。自ら挨拶をするものが最も好ましい。」と述べている。
ムスリムは他人の持つ恩寵を、その者から取り去られることを望まない限り、自らのために願うことは許されている。これはhasaad とは呼ばれず、ghibtah と呼ばれる。
「2つの場合を除き妬みは存在しない。アラーが知恵を与え、彼がこれによって支配し、人々を導く場合と、アラーが権力とともに富を与え、彼が正当にこれを用いる場合である。」
仏教
テンプレート:Main 仏教において嫉 (しつ、テンプレート:Lang-sa-short、 テンプレート:Lang-pi-short)とは一般に妬み、または嫉妬と解される。嫉とは富や名声を得るためにひどく熱心になっているが、他人がそれらを得ることが我慢できない状態とされる。
喜無量心とは相手の幸福を共に喜ぶ心であり、これが嫉に対する解毒剤となるとされている。
社会進化論的観点
人間の行動における妬みとその影響を説明する一つの理論が社会進化論である。チャールズ・ダーウィンの自然選択説に基づき、社会進化論は人間は個体の生存と再生産を強化するように行動すると予想する。これによってこの理論は例えば妬みのような社会的行動を、生物の生存と再生産に動機づけられたものとして理解する枠組みを提供する[9]。 近年の研究では妬みは認知機能や記憶の強化に影響することが示されている[10]。
文化
英語圏では、妬みはしばしば「妬みで緑である (green with envy)」というように緑と結び付けられる。「緑の目の怪物 (Green eyed monster)」とは、現在の行動が妬みでなく嫉妬により動機づけられている人物を指す。これはウィリアム・シェイクスピアのオセローに基いており、シェイクスピアは『ヴェニスの商人』においてもテンプレート:仮リンクに"How all the other passions fleet to air, as doubtful thoughts and rash embraced despair and shuddering fear and green-eyed jealousy!" と述べさせている。
財産と地位
妬みはしばしば「相手の優位をしのぐ、または無効化する」という動機となる[11]。 部分的には、この種の妬みは心理的な地位よりも物質的な財産に基づくものと言える。基本的に、人々は他者が自分が持たない望ましい物品を持つことで、圧倒的な感情を経験する。例えば、隣人が、自分が以前より熱望していた楽器を購入した場合などである。このような場合における妬みは、自己肯定感の低下という感情的な苦痛として現れる。
"メシウマ"
テンプレート:Main シャーデンフロイデ (俗に言う「メシウマ」)とは他人の不幸を喜ぶことであり、特定の状況における妬みの副産物として理解される。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ Russell(1930), pp. 90–91
- ↑ van de Ven N., Zeelenberg, M., Pieters R., "Leveling up and down: the experiences of benign and malicious envy," Department of Social Psychology, Tilburg Inst. for Behav. Econ. Res. (Tilburg Univ. 2009).
- ↑ PsyBlog, "Why envy motivates us," 31 May 2011 (citing, inter alia, van de Ven).
- ↑ Neu, J., 1980, "Jealous Thoughts," in Rorty (ed.) Explaining Emotions, Berkeley: U.C. Press.
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 2.7.1108b1-10
- ↑ テンプレート:Cite
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ D'Arms, J. (2009). Envy. Unpublished manuscript, Stanford Encyclopedia of philosophy, Stanford, Retrieved from Plato.stanford.edu/entries/envy/