奥むめお
奥 むめお[1](おく むめお[2]、本名:奥 梅尾(読み同じ)、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員を計3期務め、1961年(昭和36年)に勲二等宝冠章を受章、没後に正四位を追賜された。1989年(平成元年)に福井市名誉市民の称号を贈られた[3]。
経歴
福井県福井市の鍛冶屋、父・和田甚三郎、母・はまの長女として出生。年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、1916年(大正5年)日本女子大学校卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者になり、身分を偽り富士瓦斯紡績に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
1920年(大正9年)、政治的要求を綱領に掲げる初の婦人団体・新婦人協会を平塚らいてう、市川房枝らと設立して共に理事に就任したが、国際共産主義運動から女性解放運動への転向を、赤瀾会の山川菊榮らから批判された。1921年(大正10)年6月26日に市川が理事を辞任して渡米し、平塚も健康上の理由により協会運営から退いたため、協会の活動は奥と坂本真琴が中心となって継続。本部事務所を坂本宅に移し、機関誌『女性同盟』の編集は奥が引き継ぎ、自宅を編集部に宛てた。
1922年(大正11年)には、新婦人協会の第一目標であり、女性の集会の自由を阻んだ治安警察法第五条二項の改正に漕ぎ着けたが、協会内における路線対立が激化し解散となる。1923年(大正12年)自らの団体職業婦人社を旗揚げし、雑誌『職業婦人』(後に『婦人と労働』→『婦人運動』と改題)を発刊し運動を継続した。
消費者運動にも意を注ぎ、1928年(昭和3年)婦人消責組合協会を立ち上げた他、1930年(昭和5年)には託児所兼集会所『婦人セツルメント』(後に『働く婦人の家』に発展)を設け全国展開した。
戦時中は国民精神総動員運動、大政翼賛会などに積極協力したとして戦後批判される[4]。
1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に国民協同党公認で全国区から出馬し、抜群の知名度を利して上位当選。以降無所属(院内会派緑風会所属)になり、1965年(昭和40年)に勇退するまで3期18年務めた。
議員活動の傍ら1948年(昭和23年)には新団体・主婦連合会の会長に就任、エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や『主婦の店』選定運動を全国展開した。1956年(昭和31年)主婦会館を建設し初代館長となり、消費者・婦人運動を終生指導し続けた。
1997年(平成9年)7月7日午前零時15分、新宿区若葉の自宅で死去。満101歳9ヶ月の大往生だった。同月10日の告別式は主婦連合会、主婦会館及び全国婦人会館協議会と奥家が合同で執り行い、初当選の際に国民協同党所属議員だった縁で、当時同党の書記長だった三木武夫(後に首相)夫人の三木睦子が葬儀委員長を務めた。
著書
- 『婦人問題十六講』 新潮社、1925年
- 『花ある職場へ』 文明社、1941年
- 『新女性の道』 金鈴社、1942年
- 『戦ふ女性 女も働かねばならぬ』 大政翼賛会、1943年
- 『台所と政治 団結した主婦たち』婦人団体シリーズ、大蔵省印刷局、1952年
- 『あけくれ』 ダヴィッド社、1957年
- 『野火あかあかと‐奥むめお自伝‐』(人間の記録51)ドメス出版、1988年
- 1997年に『奥むめお‐野火あかあかと‐』日本図書センター、として改題復刊。