天六ガス爆発事故
テンプレート:Infobox 事故 天六ガス爆発事故 (てんろくガスばくはつじこ)とは、1970年(昭和45年)4月8日夕刻、大阪府大阪市北区(旧大淀区)国分寺付近の大阪市営地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅工事現場[1]で起こったガス爆発事故である。
死者79名、重軽傷者420名の大惨事となった。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸、やはり爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上ともいう。
経過
1970年(昭和45年)4月8日17時15分頃、地下に露出した都市ガス用中圧管と低圧管の水取器の継手部分が抜け、都市ガスが噴出した[2][3]。
たまたま通りかかった大阪ガスのパトロールカーが通報し、事故処理車が出動[4]するものの現場付近でエンストを起こす。処理車はエンジン再始動のためにセルモーターを回すが、その火花にオープンカット方式の覆工板[5]の隙間から漏れたガスが引火して17時39分頃炎上。
この時には、騒ぎを聞きつけた野次馬と大阪ガスの職員、消防士、警察官などが現場に集まっていた。そして17時45分頃に事故処理車の火が覆工板直下の地下部分に充満していた都市ガスに引火して大爆発。工事現場の道路上に長さ約200m×幅約10mにわたって約1,000枚が敷設されていた覆工板のほとんどが上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、多くの犠牲者を出した。
事故発生後、怪我人の多くは同区内の北野病院をはじめ大阪市内の25箇所の病院に搬送された。大阪府警察本部は爆発事故現場から西へ約200mの大阪市北市民会館に18時に現地警備本部を設置、また大阪市も同じ場所に20時に災害地対策本部を設置して対応に当たった。犠牲者の遺体は同区内の太融寺、難波別院、鶴満寺等に安置された。
事故後
事故を受けて、大阪市議会では地下鉄工事現場ガス爆発事故対策特別委員会を設置。当時の中馬馨市長の意向[6]で、犠牲者と家屋の損害などに対する大阪市・大阪ガス、それに建設工事を請け負っていた鉄建建設による補償が進められた[7]。
翌1971年6月には大阪府警察本部が強制捜査を開始し、7月23日に大阪市交通局職員3名、鉄建建設従業員5名、鉄建建設の下請業者従業員1名及び大阪瓦斯従業員2名の計11名を業務上過失致死傷罪で大阪地検により起訴した。裁判では、大阪市と鉄建建設が大阪瓦斯の管理責任を、大阪瓦斯が大阪市の管理責任をそれぞれ主張し、これが争点となった。
- 一審:大阪地裁判決昭和60年4月17日(刑月17-3~4-314)
- 鉄建建設従業員(工事の実施):執行猶予つき禁固刑、控訴
- 鉄建建設下請業者従業員:無罪
- 大阪市交通局職員(施工監督責任):執行猶予つき禁固刑
- 大阪ガス従業員(ガス管の維持管理):1名は公判審理中に死亡し公訴棄却、1名は無罪
- 二審:大阪高裁判決平成3年3月22日(判時1458-18)
- 控訴棄却
この事故を契機として「掘削により周囲が露出することとなった導管の防護」(ガス事業法省令77条・78条)が制定され、露出部分の両端が地くずれのおそれのないことの確認・漏洩を防止する適切な措置・温度の変化による導管の伸縮を吸収、分散する措置・危急の場合のガス遮断措置が決められた。
慰霊碑が近隣の国分寺公園に建っている。
なお、当時大阪府吹田市で開催中であった日本万国博覧会(大阪万博)のパビリオン「ガスパビリオン」(大阪ガスのパビリオン)がこの事故を受けて一時公開中止となった。また、当事故現場を含む大阪市営地下鉄谷町線の工事区間(東梅田 - 都島間)の開通はこの事故により遅れ1974年5月となった。
関連項目
- 桂歌之助 (2代目)(当時の芸名は桂扇朝) - 事故当日、現場近くの寺院で、落語会を開催する予定であったが、当事故の発生による多数の死傷者の発生によって、会場の寺が負傷者や遺体の収容所になったため、中止された。この後にも歌之助が会を開催する度に千日デパート火災などの大災害が発生したり、著名人の訃報が報じられるなどしたため、歌之助には「災害を呼ぶ男」という異名がついた。
- 大邱上仁洞ガス爆発事故
- 二次災害
脚注
外部リンク
テンプレート:Disaster-stub- ↑ 東梅田~都島間3.2キロの延長工事。万博を前にした地下鉄網緊急整備計画によるものだった。
- ↑ 午前中の工事でガス管全体が露出していた。中圧ガス管は1957年5月に敷設。
- ↑ このため地下で作業していた作業員は全員地上へ避難
- ↑ 更に消防車も出動し、周辺住民に対しては避難と火気厳禁を要請していた。
- ↑ 鉄の型にセメントを流し込んだもので、サイズは1枚あたり約1.8m×約0.9mで重量は約400kg
- ↑ 記者会見で「もし、あなたの肉親が爆発事故で死んでいたとしたら、どうしますか。告発状を誰に突き付けますか?」と問われた中馬市長は「原因…(絶句)勿論市民を守る立場と事故が市の工事現場で起きたという両面から、市長の私がすべての責任を負うべきだと思うし現にそう思っている」と答える。
- ↑ 死者79人(1人当り1200万円前後で総額9億1000万円)と家屋などに対する補償は事故の8か月後に完了し、負傷者に対する補償も1983年に完了した(総額5億9000万円)。