大熊朝秀
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大熊 朝秀(おおくま ともひで)は、戦国時代の武将。越後上杉氏、次いで甲斐武田氏の重臣。越後国中頸城郡箕冠城主。(現在の新潟県上越市板倉区)
生涯
大熊氏は父の政秀の代から上杉氏の段銭収納を務めていた。父の政秀の活動は享禄年間に途絶え、この頃に朝秀への家督継承があったとみられる。朝秀は父と同様、上杉家中において段銭方などの要職を務めた。越後守護上杉氏の滅亡前後から守護代長尾氏に仕え、のち長尾景虎(上杉謙信)の擁立にも尽力し、その家臣として重きを成した。
弘治2年(1556年)、上野家成と下平修理亮との領地争いをきっかけに家中内の派閥対立が激化する。争いに嫌気がさした長尾景虎の出家騒動が起こると、朝秀は武田信玄に内通して反旗を翻し、会津の蘆名盛氏と共に越後に進入するが、西頸城郡駒帰にて家成に敗れ、越中に逃れた。永禄6年(1563年)、武田信玄に招聘され、山県昌景の与力となる。やがて信玄の直臣として取り立てられ、足軽大将騎馬30騎、足軽75人持となる。勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、遠江小山城代に任じられている。天正10年(1582年)、甲州征伐において多くの重臣が織田信長・徳川家康へ寝返る中、最期となる天目山の戦いまで勝頼と運命を共にして武田家への恩に報いた。子孫は真田家に仕え存続した。