大橋宗桂 (初代)

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初代大橋宗桂(しょだいおおはしそうけい、1555年弘治元年) - 1634年4月6日寛永11年3月9日))は、将棋指し一世名人。子に、二世名人二代大橋宗古がいる。近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。

経歴

宗桂は、京都下京の町人宗也の息子で、比較的裕福だったと推定される。幼名は龍政。初めは宗金を名乗り、次に宗慶を名乗って、次いで宗桂に変わる。その「宗桂」は織田信長から、桂馬の使い方が巧いとお褒めの言葉を貰い、以後「宗桂」と名乗るようになったという話もあるが、真偽のほどは確かではない[1]

宗桂は、織田信長、豊臣秀吉徳川家康に仕え[2]囲碁本因坊算砂と度々将棋を披露した(このころは将棋と囲碁がどちらもできる者がほとんどで、宗桂と算砂は囲碁でも互角らしい[3]。)。

徳川家康は碁、将棋[4]を愛好し、碁将棋所を設け、最初は両方とも算砂が持っていたが、その後1612年(慶長17年)将棋所は独立したとされる[5]。宗桂が初代将棋所となったとされるこの年を、日本将棋連盟は宗桂が一世(初代)名人になったとしている。

宗桂は僧体だったという[6]。以後、嫡男は髪を剃り、僧体とするようにした。

初代宗桂の二百回忌に際し、十一代大橋宗桂が大橋家の系図を作成している。これによると、初代宗桂は宇多天皇を祖とする佐々木源氏(近江源氏佐々木氏)の血を引くものとされるが、多くの誤りが散見され、後代の創作であることを強く疑わせるものである[7]

詰将棋

宗桂は現存する最古の詰将棋集「象戯造物」の作者である。この作品集は、慶長年間に発行されている。

また、宗桂は将棋所に就任して4年目の1616年(元和2年)に、幕府に作品集を献上している。後の名人がこれに倣った事で、名人が幕府に作品集を献上するという慣習が生まれた。宗桂の詰将棋の作風は実戦的で力強いと森けい二は評している。手数は十数手詰めで、実戦的な手筋を多く用いており、江戸中期に盛んになった華麗な手筋を用いるものとは趣が異なる。

宗桂の詰将棋でもっとも有名なのは、俗に「香歩問題」として知られている15手詰めのものであろう。一見3手詰めに見えるが、玉方に銀をただで合駒する妙手があってなかなか詰まない。後世の大道詰将棋の客寄せ問題として使われ、大勢の庶民が頭を悩ました。

これ以前にも、山科言経が著した『言経卿記』の慶長7年(1602年)12月3日条に、「少将棊指の宗桂が来たりて了んぬ、少将棊の作物五十、一冊禁中へ進上申したきの由、来たりて了んぬ、予一冊之を与ふ」とあり、宗桂が言経を通して天皇に詰将棋集を献上しようとしたことが記されている[8]。ただしこの詰将棋集は現存を確認できていない。

最古の棋譜

現存する最古の棋譜は、1607年(慶長12年)に指された先手大橋宗桂、後手本因坊算砂の対局である。この対局は133手で宗桂が勝っている。

現在分かっている宗桂の対局棋譜は8局のみであり、その対戦成績は7勝1敗である。

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. 沼春雄『大人のための一から始める将棋再入門』、105ページ。
  2. 増川宏一『将棋Ⅱ』(法政大学出版会)等では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。
  3. ただし「、現在残されている二人の将棋平手戦の対戦は宗桂の7勝1敗である。勝浦修によると「宗桂は算砂より角1枚分強かった」という。勝浦修著『日本将棋大系1』(筑摩書房)より。
  4. 家康が主に愛好したのは、現在の将棋(当時は小将棋)だったが、宗桂ら当時の将棋指しは中将棋も研究・対局した。
  5. この年は幕府より碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えられ、宗桂は、算砂、利玄とともに50石10人扶持とされた。明治期に刊行された安藤如意『坐隠談叢』に「算砂が将棋所をゆずった」旨が記述されているが、この時期には「碁所」「将棋所」という言葉そのものがなく、信じがたいとの意見がある。(増川宏一『碁』『将棋Ⅱ』及び福井正明著『囲碁古名人全集』の巻末評伝(秋山賢司))
  6. ただし、増川宏一は『碁打・将棋指しの誕生』(平凡社ライブラリー)において、僧侶だった算砂と比較し、宗桂は町人の出だったとしている(同書121ページ)。
  7. 増川宏一『将棋2』(法政大学出版部、ものと人間の文化史23-2、1985年)、237~250ページ。
  8. 増川『将棋2』、76~77ページ。