国際劇場
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テンプレート:ホール概要 国際劇場 (こくさいげきじょう)は、かつて東京都台東区の浅草にあった劇場である。幸龍寺の跡地に建設された。
都内はおろか全国各地に同名の劇場・映画館が存在したため、通常は地名を冠称し「浅草国際劇場」と呼ばれた。松竹直営。松竹歌劇団の晴れ舞台であった。 劇場は1982年に閉鎖、その後取り壊され、跡地には現在、浅草ビューホテルが建って営業している。 またかつて劇場が面していた都道462号線は、現在も一般に国際通りと呼ばれている。
沿革
- 1937年(昭和12年)7月3日、開場、杮落しは松竹少女歌劇披露興行。
- 1944年(昭和19年)3月、決戦非常措置要綱により一時閉鎖[1]。
- 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により建物の一部が罹災[1]。その後再建される。
- 1947年(昭和22年)11月23日、松竹歌劇団公演「ラッキー・スタート」と長谷川一夫・花柳小菊一座の「弁天小僧白浪狂騒曲」公演から劇場としての営業を再開[1]。
- 1952年(昭和27年)11月、運営会社である国際劇場株式会社が親会社・松竹株式会社に合併。
- 1981年(昭和56年)12月14日~12月16日、キング・クリムゾンの来日公演が行われる。
- 1982年(昭和57年)4月5日、松竹歌劇団公演・第51回「東京踊り」をもって閉鎖。その後取壊された。
興行形態
基本的には、松竹歌劇団(SKD)のグランドレビューと松竹映画一本の組み合わせ。SKDのレビュー以外には人気歌手の実演や女剣劇、喜劇などが上演された。1970年以降、ゴールデンウィークにはザ・ドリフターズの特別公演(作・演出いかりや長介)が催された。
構造
- 建屋:4階建、設計は成松建築事務所
- 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
- 座席:3,860席(一説には4,000人~5,000人収容。俗に「東洋一の五千人劇場」とも言われた)。3階まであった。
- 有楽町の日本劇場と同様に竣工時は誠に優れた華麗な建物であったが、東京大空襲の際に大屋根に爆弾が落ち前面の入口やガラスが吹き飛んだため、窓は鉄板で塞がれステンドグラスの扉はただのガラス戸に変えられてしまった。
- 定紋は地球。日本列島が中央に来るデザインであった。
その他
- 国際通りという名前の由来は、この劇場が建っていたためである。
- 日本劇場とは違い、庶民向けの劇場。夏には浴衣姿に下駄履きの観客も見られた。
- 楽屋口の左手には小さなお稲荷さんが祀られていて、楽屋入りする松竹歌劇団の生徒は、必ず手を合わせてから楽屋入りする習わしになっていた。
- 外国人観光客も多く訪れたため、割と早い時期から英語でのアナウンスをしていた。
- 1957年1月13日、歌手美空ひばりが狂信的なファンに塩酸を掛けられ、顔に3週間の負傷。1968年3月18日には火災によって、従業員3人が死亡している。
- 1981年まで東京12チャンネルの「郷愁の歌まつり」(現・木曜8時のコンサート〜夏祭りにっぽんの歌〜)の会場になったことがある。
- NNS系列の24時間テレビ 「愛は地球を救う」の会場になったことがある(1979年8月25日~26日、夜通しの音楽ライブ)。
- 1981年12月17日、日本のヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」のデビューコンサートの場として使われ、当時の音楽業界に根付いていた「日本のハードロックは売れない」と言う見方に対し、3000枚近くあったチケットが即座に完売し、関係者を驚かせた。
- 跡地には、浅草ビューホテルが建設され、1985年9月には営業が開始された。