和田昭為
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テンプレート:基礎情報 武士 和田 昭為(わだ あきため)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。本姓は平氏。家系は常陸国の戦国大名佐竹氏の家臣。受領名は対外的には安房守、佐竹家中では掃部助を用いた。
生涯
佐竹義昭・義重・義宣の3代にわたって仕えた。財政・外交面で活躍し、上杉氏や後北条氏、結城氏などとの交渉にあたった。また、軍事面においても合戦において譜代の家臣の指南役を務めるなどの実績がある。
元亀2年(1571年)、佐竹氏に背いて白河結城氏の下に出奔する。車斯忠に讒訴されたためとも言われている。この出奔騒動の際、息子3人と一族二十余人が義重に殺害された。
白河結城氏に属すると里白石城主となったが、天正3年(1575年)に当時幼年の当主であった白河義顕を後見役であった白河義親が追放し、当主となるという政変が起こると、この隙を突いて白河領内へ佐竹氏が侵攻する。この戦いで、密かに佐竹氏に内通していた昭為は、義親と共に白河勢の先陣を務め、わざと突出して佐竹勢へ突撃し、義親軍が孤立すると、大将である義親を捕縛した。当主が人質となったため、合戦は呆気なく終了し、白河結城氏は佐竹氏に従属することとなった。この活躍で、佐竹氏へ帰参することになる。
佐竹義宣には厚く信任を受けて、天正20年(1592年)から義宣が文禄の役のために出征すると、国元の留守居を任された。文禄4年(1595年)に佐竹家中の大幅な知行割替が行われた際に人見藤道・小貫頼久とともに充行状を発給している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、佐竹氏の出羽移封にも従う。慶長8年(1603年)には渋江政光暗殺未遂事件(川井事件)への関わりを疑われた。同年隠居し、元和4年(1618年)に87歳で没した。法名は雄巌常英。
脚注
参考文献
- 浅川町史
- 今泉徹「和田昭為」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2)