渋江政光

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渋江政光の言、「国の宝は山なり、山の衰えはすなわち国の衰えなり」が記された石碑。秋田県仙北市秋田県県民の森にて

渋江 政光(しぶえ まさみつ、天正2年(1574年)- 慶長19年11月26日1614年12月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。小山氏、のち佐竹氏家臣。出羽久保田藩(秋田藩)の家老を務めて藩政改革を行った。通称は内膳。子に光久庶長子、初め荒川光康といい、のちに宣光の後を継ぐ)、宣光佐竹義章室。

生涯

政光は元々下野国小山秀綱家臣・荒川秀景(あらかわ ひでかげ)の子である。天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐の際に抵抗した小山氏改易されて、政光も浪人となった。しかし、政光の才能を見込んだ佐竹氏家臣・人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕え、20歳の時に佐竹家の重臣であった渋江氏を相続することになり、荒川弥五郎から渋江内膳政光に改名(「政」の字はこれ以前に小山秀綱の子・政種から1字を受けた可能性もある)。

関ヶ原の戦い後、秋田に減転封された佐竹家では義宣が家中の改革を断行し、慶長8年(1603年)に政光は家老に抜擢された。だが、他家の旧臣である政光らの抜擢に譜代の家臣からの不満が高まり、遂には義宣と政光の暗殺を企てた家老川井忠遠らが逆に粛清されるという事件(川井事件)まで起こっている。この影響で政光の家老昇格は一旦見送られ、正式に家老に任じられたのは慶長12年(1607年)だった。

政光は久保田城築城に際して梶原政景と共に縄張に従事。また検地制度の改革などを実施して、農業生産と藩財政の安定に尽力した。これを渋江田法(しぶえでんほう)と呼んで、他藩や江戸幕府も農業政策の参考にしたといわれている。

慶長19年(1614年)、主君・義宣とともに大坂冬の陣に出陣し、今福において後藤基次木村重成と激突した(今福の戦い)。この際、主君を守って奮戦した政光であったが、最後は流れ弾を受けて[1]41歳の若さで戦死した。

政光の死後は、義宣より1字を受けた嫡男の宣光(のぶみつ)が跡を継いだ。しかし宣光は嗣子なくして死去し、庶子のため跡目から外されていた長男(宣光の兄)の光久(みつひさ)がその跡を継いでいる。

渋江政光を題材とした作品

脚注

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  1. 義宣の命で政光の死骸を検視した須田伯耆は「何れも槍疵であり、鉄砲疵はなかった」と伝えている。(秋田県立公文書館「古文書倶楽部」第7号)