周作人

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テンプレート:中華圏の人物 周 作人(しゅう さくじん、1885年1月16日 - 1967年5月6日)は現代中国の散文作家、翻訳家。 就学時につけられた名は櫆寿魯迅の弟。

生涯

浙江省紹興(会稽)で地主の旧家に生まれる。家は幼年時代に没落し、12歳で父を失う。四書五経を学んだあと、科挙第一段階の県試を途中まで受けてみたが落ちたので、1901年に南京にある江南水師学堂へ進み、管輪班に所属した。ここで西欧の訳書や維新派の雑誌類にふれ、『アラビアン・ナイト』のアリババと盗賊の話、ポーの旧式な翻訳書が彼の最初の本となった。 1906年、海外留学試験に合格したが、近視のために土木工学の学習を命じられ、仙台医専を退学し再来日する魯迅とともに、日本へ渡る。法政大学予科で予備教育を受け、1908年立教大学に入学し英文学と古典ギリシャ語を学ぶ。同じ時期に兄と同郷の有志と毎週日曜日に開かれる、章炳麟の『説文』講義に列席する。1909年、下宿の賄い婦に雇われていた羽太信子と結婚し、また兄弟で中国最初の本格的な翻訳小説集『域外小説集』を第二冊まで発表する。同じ年に兄は帰国するが、彼は日本語の勉強に本腰を入れ、日本文学にもようやく関心を示し出す。

1911年に帰国し、翌年には浙江省軍政府の省視学として杭州へ赴任。1913年より省立第五中学の教員と紹興県教育会長を兼任する。1917年北京大学蔡元培に招かれて国史編纂処員に任命され、まもなく文科教授となり、それ以後は北京に在住する。北京大学赴任直後、胡適の言文一致提唱に共鳴し、当時北京の教育部(文科省)にいた魯迅とともに「思想革命」の趣旨を掲げて、雑誌『新青年』を根城に活発な論陣を張った。1923年に兄・魯迅と私的には絶交したが、魯迅の学問と教養について貴重な記録を書き残している。1925年、大学に「東方文学系」という日本文学専攻コースを設置した。

1937年、日本軍が北京に入城した後、北京大学は長沙昆明に移転したが、自身の病弱と係累のために周作人は残留した。1938年5月、日本側が設定した「更生中国文化建設座談会」に出席・発言し、抗戦陣営の中国知識人に衝撃を与え、重慶の論壇を代表する茅盾ら18名連署による「中華全国文芸界抗敵協会」の公開状が発せられた。1939年元旦、自称李なる青年に自宅で狙撃されるが、後でこれは日本軍の手先が脅しに来たものと作人は考えた。同じ年8月に臨時政府の湯爾和の勧誘を受け、北京大学(中国側は「偽」北京大学と呼ぶ)教授と文学院長に就任する。1941年1月「偽」華北政務委員会の常務委員・教育総署督弁に就任し、10月には「偽」東亜文化協議会会長を兼ねる。1943年6月にはさらに「偽」華北総合調査研究所副理事長、1944年5月「偽」華北新報経理と報道協会理事、「偽」中日文化協会理事となる。 1945年に日本が降伏した後の12月に、北京の対日協力者250名の一人として逮捕され、そのうちの12名とともに1946年5月に空路で南京へ送られ、7月に国民政府高等法院で公判に付される。11月16日に「懲役14年」の刑が確定し、減刑嘆願は認められなかった。

1949年に中国共産党の南京解放により出獄し、人民共和国成立後は北京の旧邸において、変則的で自由な蟄居を営むことになる。文化大革命では、「実権派」罪状の中に「漢奸」周作人を庇護厚遇したことが数えられ、魯迅未亡人・許広平の攻撃を受けるという不遇の中で没する。

著述と評価

周作人の主な著書は約20冊の散文集をはじめ、詩集・文学詩論・魯迅についての回想と資料、自伝などがあげられる。翻訳は日本・ロシア・ポーランドの近代小説、日本とギリシャの古典文学など、多数が残されている。

中国・日本・ヨーロッパに渡る広い知識を駆使した周作人の随筆は、郁達夫に「散漫支離、繁瑣に過ぎるかと思わせるが、仔細に見ればそのうちから一語を除いてもいけないことがわかり、も一度読み返したくなる。後には、古渋蒼老、爐火純青、古雅遒勁な趣を増した」と評された。作人自身は「自分の畑は文芸」であり、「随筆」を本領とし、「前人の言論を渉猟して、これに弁別を加え、砂を吹き分けて金を選び、杵ほどの鉄から針を研ぎ出すこと」とした。文章については「載道(道理を説くこと)」と「言志(自己を表出すること)」に分け、後者を良しとした。

周作人の教養は四書五経から『西遊記』『儒林外史』『聊斎志異』などの雑書におよぶ。幼時には『鏡花縁』をもっとも好んでいたという。中国の随筆家では郝懿行を尊敬している。彼や魯迅の世代のような漢籍による深い教養は、文化大革命以後の中国では求めて得られず、日本の作家でも中島敦を最後に(高橋和巳のような中国文学者を除けば)絶えて見られなくなった。もっとも影響を受けた書物はイギリスの著作家ハヴェロック・エリスHenry Havelock Ellis)だと「周作人自述」に書いている。日本人の作家では佐藤春夫を愛し、夏目漱石・島崎藤村などを中国に紹介している。『古事記』『狂言十番』『浮世風呂』『枕草子』などの翻訳もある。

以下の著作が本国で出版されている。

  • 『夜読抄』1966年、香港實用
  • 『談虎集』1967年、実用書局
  • 『談龍集』1972年、実用書局
  • 『沢潟集』1972年、匯文閣
  • 『知堂書話』1986年(岳麓・編)
  • 『雨天的書』1987年(岳麓・編)
  • 『知堂序跋』1987年(岳麓・編)
  • 『知堂集外文』1988年(岳麓・編)
  • 『知堂書信』1996年(黄開発・編)
日本では、彼の随筆が以下のように公刊されている。
  • 『北京の菓子』1936年、山本書店
  • 『周作人随筆集』1938年、改造社
  • 『中国新文学の源流』1939年、文求堂
  • 『周作人文芸随筆抄』1940年、冨山房 松枝茂夫
  • 『周作人随筆』1996年、冨山房百科文庫 
  • 『瓜豆集』1940年、創元社
  • 『結縁豆』1944年、実業之日本社
  • 『魯迅の故家』1955年、筑摩書房
  • 『日本文化を語る』1973年、筑摩書房
  • 『水の中のもの―周作人散文選』1998年、駿河台出版社
  • 『魯迅小説のなかの人物』2002年、新風舎

研究書

  • 劉岸偉『東洋人の悲哀―周作人と日本』 (1991年、河出書房新社)
  • 同『周作人伝』ミネルヴァ書房、2011 
  • 方紀生『周作人先生のこと』(1995年、大空社・伝記叢書)
  • 于耀明『周作人と日本近代文学』(2001年、翰林書房)
  • 木山英雄『周作人「対日協力」の顛末』(2004年、岩波書店)
  • 止庵『周作人伝』(2009年、山東画報出版社)

参考文献

 25px 南京国民政府(汪兆銘政権
先代:
湯爾和
華北政務委員会
教育総署督弁
1940年11月 - 1943年2月
次代:
蘇体仁