吉良親実
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吉良 親実(きら ちかざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。吉良親貞の子。
生涯
土佐国の戦国大名・長宗我部元親の弟・吉良親貞の子。幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用されたが、気性が激しいところがあった。
父の死後、その家督を相続する。そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた[1]。天正14年(1586年)12月、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、4男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、天正16年(1588年)10月、親実は比江山親興と共に切腹を命じられた[2]。
親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており[3]、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある[4]。それゆえか木塚明神や[5]、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」[6]は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。
彼の子孫は、肥後藩に仕えたと言う。