吉田孝頼

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吉田 孝頼(よしだ たかより、明応3年(1494年) - 永禄6年(1563年))は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。弟に吉田重俊。子に吉田貞重吉田周重

生涯

1518年長宗我部国親が土佐岡豊城に復帰すると、孝頼は国親の妹を妻として迎え、智謀に優れていたため、参謀として国親に仕えた。仕えた後は謀略を以って長宗我部氏の躍進に一役買うのである。1526年、長宗我部国親は娘を香宗我部秀義に嫁がせる約束であったが、それを本山茂辰に嫁がせた。国親の違約に秀義は激怒し、国親討伐の兵を挙げた。しかし孝頼は出家して詫びたため、香宗我部氏本山氏にその軍を向けたという。これは、香宗我部氏と本山氏を争わせ、弱体化を謀る謀略であったといわれている。また、長宗我部氏の軍制の基本である「一領具足」を考案したのも孝頼といわれている。

その後も長宗我部氏の知恵袋として活躍し、1563年に病死した。

家族

出自

土佐吉田氏は中臣鎌足の末裔を称し、藤原秀郷の子孫の首藤俊宗足利尊氏に従い、功あって土佐に領地を得たことが始まりである。この首藤俊宗の弟の首藤俊氏は後に山内氏を名乗り、尾張国に住むようになる。この山内氏が、後に土佐の大名になる山内一豊の先祖である。

一族

関連項目