台湾の鉄道
テンプレート:Pathnav テンプレート:台湾の交通 台湾の鉄道(たいわんのてつどう)は、台湾で運行されている鉄道の概要を記す。 また、日本統治時代の台湾の台湾総督府が経営する鉄道は台湾総督府鉄道を参照。
概要
台湾の鉄道は台湾国内にのみ存在しており、その種類は経営主体別に、中華民国行政院の各局が経営する国営路線、各公社が運営する公社路線、及びに糖業、塩業、林業会社などが運営している軽便鉄道(地元では「五分車」と呼ぶ、軌間は標準軌の半分の意味である)の3種類に大別する事ができる。
歴史
清国
台湾で最初の鉄道が敷かれたのは清朝統治時代末期の1891年(光緒17年)で、基隆 - 台北間28.6kmがこの時開業した。1日1往復の運行(旧正月運休)で、所要時間は1時間強であったと言う。1893年(光緒19年)には新竹まで延長され、総延長は約100kmとなった。軌間は1067mmを採用した。
日本統治時代
テンプレート:Main その後、日清戦争を経て台湾が日本統治下に入ると、日本は台湾の経営のためには鉄道整備が欠かせないと考え、1895年(明治28年)6月10日に「台湾鉄道線区司令部」を、8月25日には「臨時台湾鉄道隊」を設置して鉄道の管理・輸送を担当させた。台湾総督府が設置されて台湾統治の基礎が固まると、1899年(明治32年)には「総督府鉄道部官制」が公布されて鉄道が総督府鉄道部の管轄となり、それまで軍用中心であった鉄道を次第に民間輸送へも開放するようになり、本数も日4往復へ増発された。そして総督府は続いて台湾縦貫鉄道の建設に取り掛かり、1908年(明治41年)4月に縦貫線の基隆 - 高雄間404.2kmを全通させるに至った。他にも、軽便鉄道規格の台東線(東花蓮港 - 台東)や、阿里山森林鉄路なども敷設し、台湾の近代化を進めるに大きな役割を果たしたという。
その日本統治時代の鉄道最盛期といえる1940年(昭和15年)10月には、縦貫線に食堂車もを連結した急行列車が2往復、台東線にも1往復の急行列車が走っていた。
なお、軽便鉄道規格の製糖鉄道や森林鉄道も旅客営業を実施し、最初は新営庄(現新営)-塩水港(現塩水)間。
戦後
太平洋戦争での日本の敗北によって台湾は中華民国の統治下に入り、国共内戦で敗北して大陸に中華人民共和国が成立、台湾国民政府とともに中国代表国家の座の正当性を主張する「二つの中国」の時代に入った。以後台湾では1987年7月まで戒厳令が発動されるという異常事態となったが、鉄道はそんな中でも台湾の重要な産業とされて整備が進み、まず1980年2月に北廻線が完成して台東線と花蓮新駅(現 花蓮駅)で接続、1982年にはその台東線が1067mmに改軌されて北廻線との直通が実現し、更に1991年には南廻線が開通して「環島鉄路」(台湾一周鉄道)がようやく完成した。
製糖鉄道の最盛期の1950年代には3000kmに達する路線があり、このうち41路線、延長614kmでは旅客営業も実施。しかし、1982年7月16日の嘉義線(北港-嘉義間)を最後に旅客扱いは全廃されてしまったが、今一部の製糖工場は定期のトロッコ列車が運行されている。
車両は日本の新幹線方式を、電気・制御系統はヨーロッパのTGV方式を採用した台湾高速鉄道が2007年1月5日に試験開業し、同年3月2日に台北 - 左営間正式開業。
この高速鉄道の開通に伴い、台鉄西部幹線は従来の長距離輸送主体の輸送体系から近距離の通勤通学輸送を主体とする輸送体系にシフトする事を決定し、「台鉄捷運化」という計画を作成した。
経営路線
国営路線
公社路線
軽便鉄道
- 烏来観光台車
- 台糖(臺灣糖業股份有限公司)
- 渓湖五分車
- 蒜頭五分車
- 烏樹林五分車
- 新営八老爺五分車
- 橋頭五分車
- 南州五分車
関連項目
外部リンク
- 臺灣鉄道写真集
- 您遊台灣鐵道(中国語・英語)
- 旅々台北【台湾総督府交通局鉄道部】
- 臺灣非深度旅遊手册
- ROOM「P」