南方就正
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南方 就正(みなかた なりまさ、天文9年(1540年) - 慶長4年(1599年))は、安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣で、戦国時代の武将。父は南方元次、兄に南方就由、子に南方元雅等。周防右田ヶ岳城主。官途は宮内少輔、壱岐守。
生涯
南方氏は元々中原氏の庶流・門司氏の一門、大積(おおつみ)系門司氏の出身。豊後国の大友氏や厳島神主家と同族。父の元次の代に毛利興元に仕えて、安芸国山県郡南方を領して「南方」を称した。
1556年(弘治2年)に大内氏が滅亡した後、山口の防衛拠点のひとつである周防国右田ヶ岳城の城代となり、毛利氏の山口支配に従事した。1569年(永禄12年)、毛利氏に滅ぼされた大内氏の残党である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて周防国に侵攻した際、輝弘の軍勢を撃退して討ち取る(大内輝弘の乱)という功績を挙げるなど、毛利氏配下の勇将として活躍した。
1581年(天正9年)には、織田氏の中国侵攻への備えとして備中国に進出し、忍山城を守った。