北条氏秀

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北条 氏秀(ほうじょう うじひで、生年不詳 - 天正11年6月2日1583年7月10日))は、戦国時代武将武蔵国江戸城代。北条綱成の次男(孫とも)。幼名・虎松丸。通称・孫二郎、治部少輔(治部大輔とも)。最初、北条氏康偏諱を賜って沼田(北条)康元(やすもと)と名乗ったという。綱景・氏広という署名も残っている。

略歴

当初、上野国沼田氏を継いで沼田城に在城していたが、永禄3年(1560年)長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵によって攻略されてしまう。(この時に北条孫次郎が戦死したという記述もある。後述)永禄5年(1562年)江戸城に入り、翌年出奔した太田康資に代わって対里見氏の一翼を担った。また、兄康成(のち氏繁)とともに北条氏康の「康」、のちに北条氏通字「氏」の字を拝領し、また代々江戸城主扇谷上杉家当主が名乗ってきた「治部少輔」の名を名乗る事を許されている。その後は対武田信玄との方面に転戦し、一方で天正6年(1578年越後国御館の乱では北条家から養子に出ていた上杉景虎を救援するために越後へ出兵している。その後、天正10年(1582年)頃に病に倒れ、前線である関宿城から江戸城へ戻り、翌年、同地で没した。没後の家督は子の乙松丸が継いだ。

異説

  • 北条康元の異称である北条孫次郎が、永禄3年の長尾景虎の攻撃で討ち取られたという記述がある事から、北条氏秀は康元の子であるという説もある。
  • 北条氏康の子で、のち上杉謙信の養子となった上杉景虎の名を氏秀とする説が一般的であったが、近年は別人とする説が有力である。詳細は上杉景虎の記事を参照。テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub