北九州市ルネッサンス構想
北九州市ルネッサンス構想(きたきゅうしゅうしルネッサンスこうそう)は、福岡県北九州市が市制施行および政令指定都市移行25周年を迎えた1988年(昭和63年)に策定した都市政策である。
磯村英一東京都立大学教授(当時)の「多核都市論」に基いて旧五市の均衡発展を目指してきた従前の政策から、当構想により小倉駅([[[:テンプレート:座標URL]]33_53_12.3_N_130_52_57.6_E_region:JP&title=%E5%B0%8F%E5%80%89%E9%A7%85 地図])を中心とした小倉都心(小倉北区)と、黒崎駅([[[:テンプレート:座標URL]]33_52_0.6_N_130_45_58_E_region:JP&title=%E9%BB%92%E5%B4%8E%E9%A7%85 地図])を中心とした黒崎副都心(八幡西区)の両極を中心とした「集中型都市」へと大規模に政策転換したことで知られる[1]。 テンプレート:座標一覧
経緯
1963年(昭和38年)に小倉市([[[:テンプレート:座標URL]]33_53_7.8_N_130_52_33.6_E_region:JP&title=%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%B8%82%E5%BD%B9%E6%89%80 地図])、門司市([[[:テンプレート:座標URL]]33_56_28.4_N_130_57_34.3_E_region:JP&title=%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%B8%82%E5%BD%B9%E6%89%80 地図])、戸畑市([[[:テンプレート:座標URL]]33_53_40.5_N_130_49_45.8_E_region:JP&title=%E6%88%B8%E7%95%91%E5%B8%82%E5%BD%B9%E6%89%80 地図])、八幡市([[[:テンプレート:座標URL]]33_51_48.4_N_130_48_42.7_E_region:JP&title=%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82%E5%BD%B9%E6%89%80 地図])、若松市([[[:テンプレート:座標URL]]33_54_17.9_N_130_48_40.7_E_region:JP&title=%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%B8%82%E5%BD%B9%E6%89%80 地図])の5市が合併して北九州市が誕生した。しかし石炭から石油へのエネルギーの転換による筑豊炭田閉山の影響や、八幡製鐵所などを中心とした重工業の停滞等に対して、産業構造の転換が遅れており、1986年(昭和61年)当時、重工業は円高不況による構造不況業種といわれ、北九州市の経済は沈滞していた。
1987年(昭和62年)に3代目市長に就任した末吉興一が中心となって1988年(昭和63年)12月に策定。2006年(平成18年)を最終目標とした(部門別計画の目標年次)。水辺と緑とふれあいの“国際テクノロジー都市”へを基調テーマにした都市再生計画。
目指す5つの都市像
- 緑とウォーターフロントを生かした快適居住都市
- 健康で生きがいを感じる福祉・文化都市
- あすの産業をはぐくむ国際技術情報都市
- 海にひろがるにぎわいの交流都市
- 未来をひらくアジアの学術・研究都市
これらを基に鉄道、空港、海運等のインフラ整備、環境重視政策、商業復興のための施設建設、大学等の教育・研究施設の誘致、高齢者や障害者等の福祉政策などの政策を打ち出した。
各計画時期後毎の実施計画
第一次実施計画(平成元年度~平成5年度 1989年~1994年)
ルネッサンス構想の最初の具体的実施計画。21世紀を目指した街づくりの基礎計画。
- 経済の活性化(具体的には北九州テクノセンターの建設、企業誘致の用地整備等)
- 交通体系の整備【新・北九州空港の事業決定、旧・北九州空港の定期便再開(1993年に羽田空港⇔旧・北九州空港便就航)】、都心・副都心機能の充実、地域の核づくり【小倉駅前再開発(1993年に小倉そごう開業)】、紫川マイタウン・マイリバー整備、東田地区の整備(スペースワールドの開業)、門司港レトロ整備事業等
- イベント、コンベンションの誘致、開発(北九州国際会議場のオープン、わっしょい百万夏祭り、北九州国際音楽祭の開催等)
これらを中心に高齢者福祉、国際化、学術研究等の政策を策定した。
第二次実施計画(平成6年度~平成10年度 1994年~1999年)
活気に満ち、市民が実生活で豊かさを実感できる街づくり。
- 高齢者社会への対応(市全体を市・区・地域毎に分けて地域住民、団体、医師会、ボランティアと連携しながら高齢者・障害者・子供支援「北九州方式」と呼ばれる)
- 生活環境の整備
- 環境への配慮(ゴミ指定袋制、ペットボトル分別政策、環境共生住宅の整備)
- 地域経済活性化(アジア太平洋インポートマート(AIM)の建設、福祉用具研究開発センターの設置)
- 将来の発展のための基礎作り(新・北九州空港の建設、北九州学術研究都市、響灘環黄海圏ハブポート構想、東九州自動車道といった北九州四大プロジェクトの契機。北九州モノレールの小倉駅乗り入れ等を打ち出した)
第三次実施計画(平成11年度~平成15年度 1999年~2004年)
北九州市を「再生」から「浮揚」へと導き、「21世紀都市北九州―北九州新時代」を築くための指針つくり。
- 環境未来都市の創造に向けて(資源巡回型都市作り、市民とともに進める未来都市作り)
- 少子高齢化社会モデル都市の創造に向けて(子育て支援体制や障害者政策の推進。さらに地域福祉のネットワーク作り)
- 教育・文化充実都市の創造に向けて(学校教育、生涯教育の骨子や北九州芸術劇場の建設)
- 産業・頭脳未来都市の創造に向けて(大学研究機関の誘致、IT関連企業の支援、中小企業への経営環境への整備等)
- 交流・物流拠点都市の創造に向けて(新・北九州空港の整備、国際ビジネスパートナー都市連携の推進等)
- 地域・生活充実都市の創造に向けて
第三次実施計画・改訂(平成16年度・平成17年度 2004年~2006年)
第三次実施計画を踏まえて北九州市ルネッサンス構想の総仕上げに向けた政策作り。
紫川マイタウン・マイリバー整備事業
北九州市ルネッサンス構想の事業の1つ。紫川は北九州市を流れる二級河川。1970年(昭和45年)頃までは工業排水や家庭排水等で汚染が進み悪臭が漂う河川だった。これを市民や行政が一体となった浄化運動、また下水道の普及に伴い、現在はアユやシロウオ、さらに上流ではホタルの生息が確認できるまで回復した。
1987年(昭和62年)に旧建設省がマイタウン・マイリバー整備事業を創設。1988年(昭和63年)に紫川が事業対象に認定。治水対策や、交通渋滞解消・歩行者の快適性向上等のため、紫川下流の橋を海、火、木、風などをテーマとして順次架け替え・新設した。また、一部川幅の拡幅を行い、リバーウォーク北九州に近接する紫川護岸を整備し親水施設を造成。川沿いにあった井筒屋小倉店の別館・事務館を移転し、井筒屋と北九州市によりレストラン街「紫江’s(しこうず)」と水環境館が一体となった施設を建築。さらに地元出身の文豪松本清張記念館、小倉城庭園、リバーウォーク北九州の建設・整備を行なった。
問題点と課題
- プロジェクト始動には注力したが、事業採算の見通しや事業継続の仕組み作りに問題があり、コムシティ(開業から1年半で商業施設運営会社が経営破綻、現在は八幡西区役所の他、公共施設などが入る複合施設に転換)・ひびきコンテナターミナル(開港から2年で運営会社が破綻)など多くの不良債権を残した。
- 小倉都心、黒崎副都心と明確に位置づけられたが黒崎は事業予算で大きく水をあけられ、計画が後手後手となり、そごうの撤退後に黒崎周辺は経済が郊外型に変化するなど地盤沈下が決定的になった。
- 響灘環黄海圏ハブポート構想を掲げ、ひびきコンテナターミナル等を整備したが、国の港湾政策の東京・横浜、大阪・神戸、名古屋・四日市を強化させる方針への転換により、当初のもくろみ通りに進んでいない。
- 末吉前市長は八幡東区高見の新日鉄幹部社宅跡地の高級住宅街にある市長公邸(現市長北橋健治は居住していない)に住んでいた。周辺はルネッサンス構想の下で再整備された地区であるため、市民からは自分の居住する周辺地域を公費で整備しているとの批判もあった。
- 高見地区の板櫃川をはさんだ対岸を通る県道大蔵到津線が、元々4車線の道路であるにもかかわらず、従来の幅員の約2倍に拡幅された。沿道は八幡東区七条、荒生田、三条の個人医院・金融機関・商店街が連なる、地域の商業地区であったが、全て用地買収により道路用地として更地化され、地区の機能が失われた。
脚注
外部リンク
- テンプレート:PDFlink(北九州市)
- 北九州市ルネッサンス構想評価研究報告書(北九州市)