刀狩

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刀狩(かたながり、刀狩り)とは、天下を統一した豊臣秀吉安土桃山時代1588年8月29日天正16年7月8日)にだした刀狩令(同時に海上賊船禁止令)により、百姓身分の者の帯刀権を剥奪し全国単位で兵農分離を進めた政策。一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られているが、実際には刀以外の武器所有は禁じられていない。

もっとも百姓から武器を剥奪することそれ自体が初めて行われたというわけではなく1585年(天正13年)6月にも秀吉は高野山の僧侶に対して武装放棄を確約させたことがある。さらに、秀吉は根来衆雑賀衆からも武器没収を行っている(第二次太田城の戦い)。また、柴田勝家も越前国の一向一揆の鎮圧のために武器の没収を行ったことがある。[1]

刀狩令

豊臣秀吉が発した刀狩令は次の3か条からなる。

  • 百姓が脇差鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
  • 取り上げた武器は、今つくっている方広寺大仏や、にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
  • 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
    • また、没収された武器類は方広寺大仏殿の材料とすることが喧伝された。[2]

多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。

ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されるなど、刀狩後も農村には大量の武器が存在したままで、完全な武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の多くは惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。

秀吉は刀狩と並行して、武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった。この施策は江戸幕府にも継承された。

以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である[3]。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んでおり、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。

その後の刀狩の展開

後に江戸幕府が「文治政治」の導入に伴って、再び帯刀規制に乗り出す事になった(1668年(寛文8年)、後1683年(天和3年)に全国的に拡大)。しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり(脇差参照)、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動(強訴)が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されており、一定の妥協が成立していた。

これらの農村の膨大な武器がほぼ完全に消滅するのは、太平洋戦争敗戦後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。1946年(昭和21年)に銃砲等所持禁止令が施行され、民間人は狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより100万もの刀剣が没収されたという。没収喪失した中には蛍丸などの名刀も含まれた。また「GHQが金属探知機で探しにくる」という流言から、所有者が刀剣を損壊・廃棄したり、隠匿により結果腐朽させてしまったりして、古今の多くの刀剣が失われた。その政策は占領終結後もほぼ引き続き行われ、警察は武器の没収を継続した。戦後は暴力革命を標榜した極左テロ組織の活動や広域暴力団の抗争などの影響でより一層武器の取締りが厳しくなり、特に銃器関連を所持するには通常少なくとも数か月期間の審査を受けることが必要となり、日本で一般人が武力行使を前提に銃器を合法的に所持することは事実上不可能になった。

参考文献

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 刀狩コトバンク
  2. 中世社会では、刀を仏にささげる宗教行為が一般化しており、鎌倉時代には執権北条泰時鎌倉市中の僧侶の帯刀を禁じた際に、没収した刀を鎌倉大仏に寄進すると述べている。
  3. 紛争地域の武装解除に留まらず農民の交戦権そのものの否定を志向したものである、とする評価もある。藤木久志 『刀狩り 武器を封印した民衆』 岩波新書、2005年。ISBN 4-00-430965-4