信濃追分駅
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テンプレート:駅情報 信濃追分駅(しなのおいわけえき)は、長野県北佐久郡軽井沢町大字追分にあるしなの鉄道線の駅である。
概要
信越本線時代は中央本線富士見駅と並んで、特急が通る日本最高所駅(955 m)として知られていたが、しなの鉄道に移管されるとともに特急の設定はなくなった。現在でもしなの鉄道の最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線野辺山駅)。
JR時代は高崎支社と長野支社の境界駅(実際の境界は隣の御代田駅との間)だった。
「追分」は中山道と北国街道の分岐点の意味であり、旧国名の「信濃」を冠したのは駅昇格時、現在の室蘭本線と奥羽本線に追分駅(追分駅 (北海道)・追分駅 (秋田県)をそれぞれ参照)が既に存在していたからである。
一時期、不動産分譲のために「西軽井沢」へ駅名と地名を変更する計画もあったというが、地元住民やこの地に別荘を持っていた詩人などの反対で実現しなかったとされる。 テンプレート:-
駅構造
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。上り線軽井沢方に横取あり。JR時代は駅員配置駅であったが、現在は無人駅。ただし、平成25年7月13日より自動券売機が設置され5時45分から23時35分まで稼動している[1]。また、ゴールデンウィークと夏休み期間中は乗車券の臨時発売があり、小諸駅から駅員が派遣される。営業時間は9時から15時。
利用状況
年間乗車人数及び1日あたり乗車人員は次のとおり[2]。
- 1997年度 22,551人 : 125人/日
- 1998年度 64,666人 : 177人/日
- 1999年度 65,642人 : 179人/日
- 2000年度 65,424人 : 179人/日
- 2001年度 74,609人 : 204人/日
- 2002年度 72,818人 : 200人/日
- 2003年度 63,722人 : 174人/日
- 2004年度 55,722人 : 153人/日
- 2005年度 57,271人 : 157人/日
- 2006年度 59,909人 : 164人/日
- 2007年度 57,915人 : 158人/日
- 2008年度 59,152人 : 162人/日
- 2009年度 67,842人 : 186人/日
- 2010年度 64,774人 : 177人/日
- 2011年度 69,658人 : 191人/日
駅周辺
路線バス
千曲バス(軽井沢町内循環バス西コース)
- 信濃追分駅 - 古宿公民館 - 中軽井沢 - 軽井沢病院
- 信濃追分駅 - 大日向 - 追分公民館 - 三ツ石公民館
歴史
- 1909年(明治42年)6月25日 - 国有鉄道の追分仮停車場として開業。
- 1923年(大正12年)10月1日 - 信越本線の信濃追分駅となる。
- 1969年(昭和44年)10月1日 - 営業範囲を「一般運輸営業」から「旅客、手荷物、小荷物および小口扱貨物」へ変更する[3]。
- 1972年(昭和47年)3月15日 - 営業範囲を「旅客、発送手荷物および発送小荷物(9月11日から翌年7月19日までの期間は旅客に限る。)」へ変更する[4]。
- 1974年(昭和49年)10月1日 - 営業範囲を「旅客、発送荷物(9月11日から翌年7月19日までの期間は、旅客に限る。)」へ変更する[5]。
- 1984年(昭和59年)2月1日 - 営業範囲を「旅客」へ変更する[6]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に継承。
- 1997年(平成9年)10月1日 - 長野新幹線開業に伴い、東日本旅客鉄道からしなの鉄道に移管される。
- 2005年(平成17年)秋 - 駅舎内に暮しの手帖別冊「あたらさん」の編集室が設置される。
- 2013年(平成25年)7月13日 - 自動券売機を設置。使用開始。
隣の駅
- しなの鉄道
- テンプレート:Colorしなの鉄道線
その他
- プラットホームからは浅間山などが一望でき、その案内板もおかれている。
- 下りホームに特急あさまの乗車位置案内がうっすらと残っている。
- 鉄道紀行作家の宮脇俊三は「旅情を誘われ、信濃路の終わりを感じさせられる」、フリーライターの所澤秀樹は「人生の分かれ道のような感傷めいたものを感じさせる名」と、それぞれこの駅名を表現している。
- JR時代には記念スタンプが置かれ、現在もその名残のスタンプ台が残っている。しなの鉄道への移行時に全て撤去されたが現在3種類が軽井沢駅隣接の旧軽井沢駅記念館に保管され、来館記念用に軽井沢駅の物と共に現役で使用されている。