佛光寺
佛光寺(ぶっこうじ)は、京都府京都市下京区にある真宗佛光寺派の本山。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。「仏光寺」とも表記されるが、正式には「佛光寺」である。
歴史
承元元年(1205年)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞は越後国に配流された(承元の法難)。
寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。[1]
佛光寺教団の直接の母体は、武蔵国の荒木門徒(第3世源海)、阿佐布門徒(第4世了海)である。存覚の協力と時衆の影響の下、光明本尊・絵系図・名帳などの媒体を用いて布教活動に力を入れ、精力的に西国の布教をおこなう。結果、畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城となった。これに対して本願寺第3世法主覚如は、建武4年(1337年)に『改邪抄』を著し、絵系図などを真宗にあらざるものと批判する。
元応2年(1320年)、第7世了源により、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、山科から今比叡汁谷(しるたに)または渋谷(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移した。史実としての佛光寺は、了源が山科に建てた草庵を今比叡汁谷に移して寺格化したことをもって開創とする。
佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。元亨元年(1321年)、覚如により親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化し、「本願寺」と号する(〈大谷〉本願寺の成立)。
寺基の移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛をきわめる。一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465年)1月9日に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまで次第に荒廃していく。佛光寺は、興隆にともない天台宗・延暦寺の弾圧が強まっていく。
応仁元年(1467年)、第13世光教の時に応仁の乱が起こる。京都の街は戦火に巻込まれ、佛光寺も諸堂を焼失する。乱のさなかの文明3年(1471年)、蓮如は吉崎で布教活動を開始し本願寺教団は急速に発展していく。文明13年(1481年)には、第14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として別に創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参してしまった。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。残った有力末寺6坊は、経豪の弟経誉を知恩院からよび戻し、佛光寺第14世とした。以上の経緯から経豪は佛光寺歴代に数えられていない。
天正14年(1586年)に豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門の龍臥城(現在地)に移す。「仏光寺通」という通りの名前にもなっている。
住職は、室町期以降二条家の猶子となり、妙法院門跡の許で得度する慣習があった。やがて准門跡に列せられ、僧正位を代々受ける。明治になり苗字公称が義務づけられると、澁谷姓を名乗った。明治29年(1896年)6月9日、管長澁谷隆教が男爵を授かって華族に列せられた。
現門主は澁谷笑子(惠照)。
最盛期の寺勢
佛光寺の最盛期は、高田専修寺とともに、当時の本願寺を大きく上回る寺勢を誇っていた。
上記4流を合わせると、元の末寺は3000ヶ所以上に上るともいわれる。
文化財
脚注
関連項目
参考文献
外部リンク
- 真宗佛光寺派 本山佛光寺 - 公式サイト