インド人民党

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テンプレート:政党 インド人民党(インドじんみんとう、英語:Bhāratīya Janatā Party [略称:BJP], ヒンディー語:भारतीय जनता पार्टी [略称:भाजपा]、英語訳:Indian People's Party)は、インド政党。1998年から2004年までアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(バジパイ)を首相に同党中軸の国民民主同盟(National Democratic Alliance:NDA)連立政権を率いた。2014年からナレンドラ・モディ政権の与党。

基本姿勢

ヒンドゥトヴァテンプレート:仮リンクを掲げているヒンドゥー至上主義政党でイスラム教キリスト教をインドの価値観に合致しないとして批判するが、シヴ・セーナーに比べ穏健である。保守政党であるが、政教分離カースト解消などには基本的に賛成である。インド共産党とはヒンドゥットゥヴァの創始者にしてウラジミール・レーニンの親友で共産党を運動に参加させたテンプレート:仮リンクが両党から尊敬されていることもあり、汚職・外資・米印原子力合意問題で連携している。

外交では国民会議派より非同盟色が強く、政権担当中に中国との関係改善にのりだして戦略的パートナーシップを結び、イラク戦争には反対した。

BJPの支援団体として、2つのヒンドゥー至上主義組織、ラーシュトリーヤ・スワヤンセーヴァク・サング民族義勇団:RSS)とテンプレート:仮リンク(世界ヒンドゥー協会:VHP)とスワデーシー運動の団体テンプレート:仮リンク(SJM)がある。

歴史

発足まで

インドでは独立以来インド国民会議派(コングレス)が一党優位制を維持していたが、一方で民族義勇団に代表されるヒンドゥー至上主義の流れも根強く1951年テンプレート:仮リンクを結成。ラージャスターン州マハーラーシュトラ州マディヤ・プラデーシュ州ウッタル・プラデーシュ州など主に北西部で支持を集めていた。

その一方で1970年代から、各地での地域政党の勃興や会議派内の汚職、インディラー・ガーンディー時代の強権政治への不信感などにより会議派政権の支持が揺らぎ始めていた。1977年のローク・サバー下院)総選挙を前に大衆連盟は、会議派の反主流派や地方分権主義者・社会主義者の集合体だったテンプレート:仮リンクと急きょ合体してジャナタ党(人民党の意)を結成。ジャナタ党は選挙に勝利しテンプレート:仮リンク政権を樹立したが、野合した政党だったため政権獲得後に分裂し崩壊した。そこでヒンドゥー至上主義を明確にし「ヒンドゥットゥヴァに基づくジャナタ党」として再建されたのが、現在のインド人民党である。こうした経緯からまれにインド・ジャナタ党と日本語訳されることがある。

党勢の急伸

1984年のローク・サバー総選挙では2議席にとどまったが、1989年にはラール・クリシュナ・アードヴァーニー総裁の下で一挙に85議席を獲得し躍進、旧ジャナタ党の中道・左派を源流とするジャナタ・ダル主導の連立政権に共産党などと連携して閣外協力1991年の総選挙でも120議席に前進、1996年総選挙ではついに161議席を獲得して第一党となり、ジャナタ党政権で外相だった党の有力者アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーが大統領から組閣を要請され首相に就任。だが、この時は反対勢力の結束・抵抗によってローク・サバーの信任を受けられず、わずか13日の束の間の政権に終わった。

政権樹立

しかし1998年の総選挙で再び最多議席となる182議席を獲得し、今度は他の政党と連立に成功、ヴァージペーイー首相のもと新たに形成した国民民主同盟連立政権の中核として中央政治のトップに上り詰めた。また政権掌握直後に核実験を実施し世界中を驚かせた。1999年の総選挙でも183議席(国民民主同盟各党派の合計では303議席)を獲得し政権維持に成功した。

このBJP主導の連立政権下で、それ以前の1991年ナラスィンハ・ラーオ国民会議政権時代から当時のマンモーハン・シン財務相の下で本格的に開始された経済自由化政策が積極的に推し進められた。また中華人民共和国を戦略的パートナーと呼んで初の合同軍事演習やヴァージペーイー首相の訪中などを実現させ、シッキムをインド領と認めさせることと引き換えにチベットを中国領と明記。敵視しているイスラーム圏であるにも関わらず、イラク戦争には反対するなど米国の外交政策を牽制するむきがあった。いっぽうで経済政策面ではIT(情報技術)産業の急成長を軸にアメリカ主導のグローバリゼーションを推進する傾向が強かった。

下野

だが2004年のローク・サバー総選挙では経済発展に沸くインドを謳った"India Shining"をスローガンに大々的な選挙キャンペーンを行ったものの、大方の予想に反し138議席の獲得に留まり第2党に後退、ソーニヤー・ガーンディー率いるインド国民会議を中心とした統一進歩同盟(United Progressive Alliance:UPA)に政権を奪われ、マンモーハン・シン首相の誕生を許すに至った。自由化の恩恵が未だ行き渡らないまま"India Shining"のようなキャンペーンを展開したことで、かつてBJP支持層であった国民の予想以上の支持離れを招いたものとみられている。2009年のローク・サバー総選挙でも議席を減少させ116議席にとどまり、政権奪還はならなかった。

2013年の党総裁はテンプレート:仮リンク2013年1月就任)。

2014年インド総選挙

2014年の総選挙前に、ナレンドラ・モディがインド人民党選挙運動委員会会長就任。選挙後の党指導者の座を確実にした。選挙ではインド国民会議を向こうに回し、インド人民党が圧勝。久々の政権奪取を確実なものとしたが、上院の議席保有率は2割程度しかないため法案を単独で通す能力は無く、他党の協力が模索されている[1]

出典

  1. テンプレート:Cite news

関連項目

外部リンク

テンプレート:インドの政党


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